Bohemian Rhapsody vol.1

Oct 03,2004
修正: Oct 28,2008

ジブンでも、もしかしたら2015年くらいになるまで更新は無いのと違うか?!と思っていた当コラム「俺のオートバイ」ですが、まさかこんなカタチでアップデートすることになろうとは、夢にも思っていませんでした。

これは2004年8月30日からしばらくの間、現実にあった出来事です。普段なら、まるで「少年は荒野をめざす」が如く、エンターテイメントを目指してひたすら駄文を書き綴るアイリーですが、今回はノンフィクションです。ドキュメンタリィです。それをWEBに出してしまう以上、ハンドルネームなんていう柔らかなオブラートを脱ぎ捨てたうえで記事にしないと腰砕けになるよなあと思いました。

非難GOGO! は覚悟のうえです。Here We GO!!

今だにクリスマスのような新宿の夜
一日中誰かさんの小便の音でもきかされてるようなやりきれない毎日
北風は狼のしっぽをはやし ああそれそれって僕のあごをえぐる
誰かが気まぐれにこうもり傘を開いたように 夜は突然やって来て
君はスカートをまくったり靴下をずらしたり

おお せつなやポッポー 500円分の切符をくだせえ


乾杯 / 友部正人

8月が終わろうとしていた30日の夜半頃、わたしたちの倉敷市に台風16号接近による高潮と夏の大潮の満潮時が重なるだろう、ということが前日からテレビのニュース番組で報道されていた。数日前には、この台風は伊勢湾台風に匹敵するくらい猛烈なものだ、と伝えられていたがもちろんわたしは伊勢湾台風がどんな被害をもたらしたものなのかということについては、今もなお語り継がれる山口百恵「赤いシリーズ」の第3弾「赤い運命」のバックヤードに使われたという程度しか知らない。

13年前のリンゴ台風(1991年の台風19号)の時には、倉敷市より50キロ東寄りの街、備前市が高潮で床上浸水したのを思い出した。あの時は、わが家でも近所の電柱の碍子が塩害でショートして、しばらく停電した。

それから、風で引きちぎられた看板が、アタマに激突して死亡した同級生がいたということを、あとで知った。

わが家アイリー庵にお越しくださったことのあるかたはご存知だろう、アイリー庵は沿岸の埋立地にある。国道430号線沿いに堀のような形で小さな湾になっている港があって、そこにある信号を海の見えた方角に曲がった場所にある。

その堀の堤防だが、リンゴ台風のときには海水が乗り越えてきた。あの夜、消防団のみなさんが土嚢を積み上げていたことを思い出す。ただ、幸いなことにそのときには国道沿いに海水が広がったけれど浸水家屋が無かった。やがてその土嚢があった場所には、堤防を高くする改修が、数年前に施された。

そのほかに、近隣の沿岸部にも高潮災害対策ということで、電動式の水門、堤防の改修、避難場所をモニターするテレビカメラが設けられた。そして、市内を網羅する民間ケーブルテレビには倉敷市の広報チャンネルが。FMのタウン放送局に倉敷市ウェブサイト。これで万全・・・・。

普段はユーザ車検であっさり済ませていたグレイハウンド・ジムニー号だが、4回目の継続検査を受ける時期が来た。今回はさすがに経年変化による要チェック箇所が多いので、高校時代からの友人が勤めているモータースにお願いすることにしていたところ、ターボ機構のマニホールドにクラックがあったり、ヒビが目立ち始めたベルト類の交換が必要だ、ということで数日間入院させることになった。

そのとき届いた代車は、三菱ミニカの新車だった。さすがに例の事件のあとで生産されたものだろうから、その点は安心かなと乗り回していたところで、台風16号が襲ってくるという。万一、自宅が浸水するようなことになったら、逃れようもないし新車の代車に申しないしということで、襲来に備えて、妻とふたりの娘たちにはミニカごと妻の実家に疎開させた。

わたしはその夜、所用で市内沿岸部の別の場所にいた。自宅のことが心配なので、ご近所在住の友人、しんえもんさんに、浸水するようだったら連絡をくれ、とお願いして、台風の被害が何もないことを、ただ祈った。

風と雨と夜が来た。海がせりあがってくる。黙ってわたしは海を見ていた。

翌朝午前7時。妻と娘たちの安否を確認してから、しんえもんさんに連絡を取る。

「ウチとかキミんチは問題ないけど、あたりがエライことになってるぜ!!」

そうか浸水してしまったか・・・

仕事をキャンセルして、わたしは自宅へと向かおうとした。少しでも早く帰着しようと近道を使った。しかし様子がいつもと違って大渋滞。集落はすっかり床上浸水していた。壁際のヘドロと海草を洗い流している人、それぞれの路肩には軽トラックがずらり。それからし尿汲み取り車と路線バス。

渋滞のなかで妻から連絡が来た。

「ちょうど今、実家から戻った。家屋には問題は無い」それならば、とわたしは混み合う車にうんざりしながら直接ガレージに向かった。

南へ下る道路には避難民があふれ
僕は10トントラックで


大阪へやってきた / 友部正人

ガレージは、海に面する河口から見て1.5kmの場所にある。自宅が問題なくても、むしろこちらのほうがヤバいような気がしていたのは確かだった。この信号を過ぎたらガレージ、というところに消防のポンプ車が1台いて、なにやら作業をしている。わたしが車の窓から「このあたりは浸かったんですか?」と尋ねたところ、憔悴しきった消防士さんは「程度の範囲は、それぞれまちまちですが・・・・」力なく曖昧に答えた。

半ば諦めた心境でガレージに到着。そこは向かい合わせにふたつの棟があって、都合30台ぶんの車庫になっている。ほとんどの人が車を格納しているが、場所によっては近所のスナックが使っていて、店の装飾品やら夜の衣装やらを仕舞っていたりするところもあるようだ。

普段の日中なら、鼻先が収まりきらないトヨタ・アリストがシャッターを半分開けて顔をちょっとのぞかせている程度で、そこを除いたらぜんぶシャッターが閉じているのだが、火曜の朝だというのに半分くらい間口が開いてあった。10人くらいが、そこいらを忙しそうにうろうろしている。クルマのフロアに溜まった海水を掻い出す人やら、セル・スタータが動かなくなったクルマを押し出して、ロープで牽引しようとしているカーディーラーのサービスの人とか。

これは大変なことになっている。そんなことは瞬時にわかる。そしてジブンとこのシャッターを開けた。

ああ・・・。W1S-Aが、初期型のSR400が、FJ1100が泥と海藻にまみれている。

シルクロードやらその他のバイクもまた同様だった。悲惨だ。

ともかく乗ってきた車を、他の皆さんの邪魔にならない隅っこに移動して、状況の把握をすることにした。

シャッターが開けられた隣では、ホンダCR-Vのナンバープレートがちょうど下半分だけ泥まみれになっている。そのふたつ隣のホンダFITはバンパー部分から下に泥が。つまり車としてはかなり深刻な状況であることが、すぐにわかる。ましてや、海水による浸水だ。背の低いクルマは、再起不能かもしれない。ちょうど大家さんがウロウロしていたので、どのあたりまで水位があったのか尋ねてみたところ、小柄な彼女は、ここに40年居るけどこんなことは初めてよ、と大腿部を指差しながら答えた。

オートバイは、もしかしたら大丈夫かも、と思ったわたしは、まずW1S-Aのエアクリーナをガレージに常備してある工具で取り外してみた。濡れてはいない様子には、ひとまず安心。エアクリーナを元に戻してから単純共鳴式サイレンサを取り外すと・・・・やっぱし・・・・

どぼどぼと泥水なのかカーボンなのか、ヘドロ混じりの液体が流出してきた。いちおう舐めてみるが、それは予感したとおで、塩っぱい。

ここにあるオートバイぜんぶを一度自宅に運んで、洗浄しようかという途方もないプランがアタマに浮かぶ。しかしひとりでそれをこなすのは到底困難かと、共同で借りているオーナーたちに連絡を取ってみた。

ひとりは九州に、また別のひとりは神戸に、そして最後のひとりは身動き取れずということで、こうなったらひとりでこなさねばならぬと気合いを入れなおしたところで、ふたたび大家さんが通過。

わたしたちのガレージから10メートルくらいのところに大家さんの自宅がある。そこの玄関先には水道のホースがあるなあ、と先ほどからちらちらと横目で確認していたわたしに気付いていて、おそらくは気遣ってくれたことは間違いないだろう。

「どうぞお使いください。」

オートバイとオートバイの形になっているもの全9台をずらりと大家さんちの前に並べた。まずは、ガレージの床を洗おう。たまたまガレージ内にコロがっていた空っぽの20リットルポリタンクを使うことにした。

ポリタンクに水道水を貯めては、ガレージの床に溜まったヘドロと海藻を押し流す。こうした作業を5回くらい繰り返してそれでもどろどろのままの床を見たとき、やはりこのままではラチがあかないだろうと、妻に援軍を要請。

「ホウキと飲み物と菓子折りを用意してくれ〜。」

妻が到着するまで、わたしはずらりとならんだオートバイをじゃぶじゃぶと洗うことに終始した。その間、ガレージにやって来てシャッターを開けるや、怒号をまた悲鳴をあげる人々、ちょっと前のわたしもそうだった姿を5回くらい見てしまうことになった。

ミニカで妻と娘たちがやってきた。 泥まみれの父を見て何を思うか知らないけど、何も知らないほうがまだ幸せな年齢。

早く帰って新学期の用意をしろよと声をかけて、わたしはホウキを持ってガレージ床の洗浄を再開する。

去年の秋、ガレージの中に建築用の足場とか不要になったスチール棚を使って、どうしてもホコリっぽい床には直接部品を置かないようにしようと改造しておいた。そのことが、水没被害をこの程度で済ませるころができたのかな。まだ良かったよな、と言い聞かせながら、ひたすら清掃を続ける。

いちおうオートバイが乾燥してきた様子が見てとれたので、今度はW1S-Aのエキゾーストパイプを車体から取り外して内部を洗った。それからガレージの床が乾いたので、もう一度中のホコリを掃き出して、オートバイを一台ずつ格納した。

ここでちょうどお昼になった。大家さんも食事のためか家に戻ってきたみたいだ。お礼を述べて菓子折りを渡した。そしてわたしも昼飯でも空海ってんで、2km東の自宅に戻ろうとすると・・・・・あきらかに町の様子がおかしい。動いていない信号がある。そのわりには車の通行量が少ない。普段なら満車になることなんて無いスーパーの駐車場やら仏壇屋の駐車場が、車だらけ。なんとなく不思議な光景を訝しがりながら自宅に到着。

母が来ていた。彼女は普段、この時間帯には働きにでている。

「すぐ叔父さんのところに行っておくれ。床上浸水!!」

自分の家族とオートバイのことだけを心配していたわたしは、後頭部を殴りつけられたような自嘲感を抱いた。すわ一大事と自転車に乗って、北に200メートルのところにある母の弟の自宅兼店舗に参上。こうなると午後から引き続きオートバイのチェックを続けるどころの話ではない。

国道と平行していて、かつてはこの町のメイン・ストリートだった県道がある。その道から30cmの高さでスロープが付いたうえに建てられてある叔父宅は、一階が釣りエサと道具、タバコにジュースを販売する店舗になっている。居住スペースは二階にあるから、昨夜は階段から潮が引くのをじっと見守っていたということだった。見ると、店舗部分の床から50cmあたりまで、藻と塩水のシミがあった。床はヘドロが堆積している。

釣りの生き餌を保管するシステムを説明するのは結構ややこしいのだが、要は水の冷却とエアを送るための仕組みが、冷蔵庫と同様にいちばん床に近い場所にある。浸水のせいで、そこいらがダメになったから、やがて生き餌は全滅するだろうと叔父貴は言った。それから冷凍餌を保管する大型冷凍庫もコンプレッサが水没。タバコとジュースの自販機も、セキュリティシステムが水没して全滅していた。

ただ、夕方頃から万一に備えて、生きエサ以外の商品は比較的高い場所に移動させていた、だから最悪の状況だけは逃れることができた、とも叔父貴は言ったが、もうすぐ還暦を迎えようとしている叔父夫婦にとって、浸水していく店舗をどのような気持ちで見ていたのかということを考えると、どうしようもないが胸が痛くなる。

泥をとにかく家から出すことに専念することにした。 なんという名前の道具か知らないけど、T字型のワイパーみたいな道具を借りてガシガシと床の泥を押して掻き出す。ディスプレイ什器に陳列されてあった商品は、昨晩のうちに移動されていたので、什器を戸外の道端に出した。修理して再び動かすことができるかどうかわからない冷蔵庫は、店内のあちらこちらに移動させながら、ひとまず泥と海藻を押し出す。それからホースを長く延ばして、床に水道水を流していく。

今までの作業で掻き切れなかった汚れが浮き出していく。これをまたひたすらワイパーで掻く。店舗によくある、コンクリートを打った上に塩ビのタイルシートを施した床だから、こうした強引な作業ができるのだろう。

やがてドブのような悪臭は消えて行った。それともヘドロの臭いに慣れてしまっただけなのかも知れない。

叔父の釣り道具屋の前に、市清掃局の2トントラックが停まった。

「巡回収集していますゴミを出してください。」

おっ。対応素早いじゃん。ケンゾウやるじゃん。市民税払ってる甲斐あるじゃん。

倉敷市は40年くらい前に3つの市が合併して現在の姿になっている。複数のエリアがあったということは様々な利権が複雑に絡み合いながら綱引き政治をするもんだというのは周知の事実だと思うが、ケンゾウさんってのはウチのエリアから何十年か振りに出た、今年6月に初当選したばかりの期待の市長さんだったりする。

電気屋の前に30人ぐらいの人だかり 割り込んで僕もその中に
「連合赤軍5人逮捕 泰子さんは無事救出されました」
金メダルでもとったかのようなアナウンサー
かわいそうにと誰かが言い 殺してしまえとまた誰か
やり場のなかったヒューマニズムが今やっと電気屋の店先で花開く
いっぱい飲もうかと思っていつもの焼き鳥屋に
するとそこでもまた店の人たち
ニュースに気を取られて注文も取りにこない
お人好しの酔っぱらいこういう時に限ってしらふ
ついさっきは駅で腹を押さえて倒れていた労務者には
触ろうともしなかったくせに
泰子さんにだけは触りたいらしい


乾杯 / 友部正人

ふと気付くと、夕方6時。わたしとしては、まだまだ復旧作業に投げ出すことができる体力は残っていたものの、叔父貴夫婦はすっかり疲れていた。おおきな部分での掃除はできたから、あとは少しずつ片付けることにするよと叔父が言うので、自宅に戻ることにした。

自転車を漕いだ。通りすがりに見かける人たちは皆、途方に暮れた様子で、まだ浸水家屋を片付け続けていた。

家に着いた。まだ日没までには30分くらいある。わが家がどのくらい冠水していたのか注意深くチェックしてみることにした。アフロ君しかご存知ないかも知れないが、間口の西側に、塀を昨年新設した。その地面付近を注意深く見てみると、泥汚れが付着している。その高さから考察するに、ちょうど玄関のタタキあたりまで海が来ていたことがわかった。

「ええい中和じゃ。中和〜。」

ガレージのなかでわたしを待っているはずのオートバイたちのことはすっかり忘れて、庭の花壇でぐったりしているヒマワリやら百日草、ズッキーニやらバジルやらを襲った塩を、少しでも抜いてやりたいと、水道水をドボドボとかけ流してみた。やがて日暮れを迎え、その後わたしは泥のように眠った。

翌日から4日間、仕事のため自宅を留守にした。そして迎えた日曜日の朝7時、わたしは叔父の店に出かけた。店を営業していることにずいぶん安心した。

「だけど地元密着のお店だから釣りのお客が来ることは無いだろうね」と叔父貴は言った。だいたいこの町に住む人々にあって釣りなんかしている場合じゃないんだってことは誰だってわかる。罹災したエリアをなんとかしようと集まった人々が、休憩するのにジュースやタバコを買い求めに来てくれているのだ、ということだった。

そういえば、ここから最寄のコンビニエンス・ストアまでは300メートルくらい離れているし、道路沿いのいたるところにある自動販売機は、たいがい壊れたままで修理を待っている。

この浸水被害を受けた住宅密集地を車で移動しようとする人は少ない。おおげさに表現すると、叔父の店は壊れてしまった町のオアシスのひとつになっているのかなと思いながら、わたしは災害復旧のお手伝いに出た。

宇野港がある玉野市の被害地域には、日本原駐屯地より木曜日から陸上自衛隊が支援にやって来ているのは、ニュースで知っていた。それから倉敷市では、金曜日から陸上自衛隊が200人くらい入っているのだと聞いていたが、7時半の時点ではその作戦行動がわたしには映らなかった。

国道430号につながる路地のいたるところに、浸水でだめになった畳が積み重ねられていたり、壊れた冷蔵庫にテレビ、布団や箪笥などが瓦礫と一緒になって集められている。

そうした被災ゴミをトラックやパッカー車に運んで積み込む仕事をすることになった。

8時をずいぶんまわったころに、オリーブのペイントが施された10トントラックが、ボンネットの災害支援隊のたれ幕も颯爽と、何台も登場した。ざかざかとトラックから、迷彩半袖シャツを来た人々が降りてきて、えっさほいさと袋詰めのゴミをバケツリレーしながら収集用の10トントラックに積み込んでいく。その作戦行動を見て、荷台のアオリを超えて積んだら法的には過積載になるんだよなあ、さあどうすんだろうかなあと思っていたら、やっぱしアオリを超えない程度のゴミを積んだところで、処分場に出発なさっていた。そう、有事でも道路交通法は遵守されるべきだ。

倉敷市では、浸水当初は市のゴミ収集車でコトにあたったけれど、被害に遭った家庭から企業からどんどん出てくる罹災ゴミに対応すべく、木曜から民間の清掃業者さんに応援を要請(というかたぶん半強制的に業務委託)。やがて市内の業者だけでは車の数が不足していると判断したのか、遠くは新見市とか真備町で営業されている業者さんもお越しくださっているそうだ。それから土曜日には、委託が土建屋さんにも及んだことで、2トンダンプが過積載しながらも大活躍していた。

清掃業者のパッカー車が、バリバリと箪笥やら襖を破壊しながら積み込んでいく。あんたいったいナンボ積んでまんねん〜。

処分場も、われわれの住んでいるところから車で30分のところにある通常の施設が、浸水三日目木曜日の時点でパンクしてしまっていたそうで、金曜日には別の場所を一時的に使用することになった。しかしそれすら追いつかないということで、土曜日からは罹災地域にほど近い場所にある、2005年の岡山国体に新しく建設したプール施設の裏側にある空き地を暫定処分場にすることになった、と聞いた。これはありがたいことだと、わたしは思った。片道せいぜい5分なら、ずいぶん町はきれいになるんじゃないだろうか。しかしよく考えると、その暫定処分場とは、今年の11月に新しく稼動するゴミ一時集積施設「リサイクル・センタ」のことだったりする。効率の悪さを考えたとき、すごく悔しい気持ちになる。だめじゃんケンゾウ。

作業しながら、いろいろな話を耳にしたものだ。 高潮対策の水門は電動で開閉する仕組みだったが、停電で動かなかった門があったとか、別の場所ではモーターが水没したとか。そして電動がNGだったときに備えてあったはずの手動ハンドルが錆び付いて動かなかったとか・・・。また国道430号線がコースト・ラインになっている地域では、高潮に備えて作った堤防のうち、たまたま水準からみて高い場所から波が乗り越えてしまったもんだから、堤防の内側がホントの川みたいになって低いところへ一気に流れていってしまったとか。みんなボソボソと、そして本当に笑顔なく、とりとめのない話をまじえながら、積んでも積んでも減らないゴミにへこたれないように身体だけは動かしつづけていた。ひたすら黙々と淡々と。

ああそうだった、今日は日曜日なんだ。罹災された方の親戚一族郎等が、それぞれのご家庭にヘルプとして入って、ガンガンと片付けが進んでいるから、こんなふうになるんだよなあ。

出てくる出てくる、ゴミが出てくる。災害時特別措置ってことで、木曜日から翌週の火曜日まで罹災地域に限っては、特例ゴミステーションに持参すれば、分別しなくてもOK、テレビ・エアコン・冷蔵庫に洗濯機、普段リサイクル法とかで有償なら回収してくれる大型のゴミが出てくる。あんたそれ、ぜんぜん浸かってませんやんか、というゴミなんかも当然なような顔をして出てくる。ヒアブ搭載トラックが応援に来た。なんとこれは効率が良い。腰痛の心配をしなくて済む。

XT500とかYZR125とかZ50Jとか正直、人目がなければ持って帰らせていただきとうございます、というような粗大ゴミまであった。

さて、自衛隊10トントラックが出入りする、ウチの近所の一次集積場にあったゴミの山も夕方頃にはずいぶん小さくなってきたので、それならわたしは別の場所でお手伝いするか、と移動して作業していた。しばらくして再びそこに戻ると、自衛隊の皆さんの姿はもう無かった。まだ5時半だぜェ。まだまだ区切りが付いているなんて到底言えない状況のなか、撤収しているとはなんてことだい。

貴様それでも ぐっ・・・と堪えた。いえいえ国家公務員ですってば。ひとり呟くと、やがてたしかに日が暮れた。

ちゅうと〜ハンパはやめて♪


中途半端はやめて / 春風亭昇太(奥村チヨ)

ええいくそっ!

ぶつくさ言いながら、わたしは自宅に戻った。夜は誰のところにもやってくる。祝日には国旗を飾りましょうと玄関先にプレートを貼っていたりするお宅にも、赤旗を購読したりアジビラを表に貼っていたりするお宅にも、きっと自衛隊は分け隔てなく支援してくださったことだろう。お疲れさまと妻が用意してくれていた風呂に入り、漢字ビールを冷蔵庫から取り出してテレビのスイッチを入れる。

「さきの台風16号で罹災した倉敷市沿岸部では・・・・」

ニュース番組が、悲惨すぎる状況を伝えるものだと思っていた。画面を見たら、終始自衛隊員の姿とボランティアが映し出されていて、民間の清掃業者さんと土建屋さんの車両なんてこれぽっちも登場していない。

見ると聞くとは大違い 旅行案内信じるな


台湾 / 豊田勇造

金曜日からの三日間、災害復興支援活動をした自衛隊は本日その任を終え、倉敷市沿岸部は元の姿をとりもどしつつあります、なんてアナウンサが原稿を読んだ瞬間、情なくて涙が出た。ええいもう税金なんて払わ〜ん!!

倉敷市には東から西に沿岸部があって、そのうち罹災した地域が15くらいあります。その西からみっつ目のエリアにわたしは住んでいるんですけど、もとの姿になんて、まだ取り戻しつつありませんから。

願わくば罹災家族のかたがこの番組をご覧になっていないこと、そしてかの地サマワ(NHK風味ならサマーワ)でも、そこの誰かが今夜のわたしと同じ気持ちになっていたりしないことを祈りながら、塩っぱい漢字ビールを呑み干した。

ニュースが長かった2月28日をしめくくろうとしている
死んだ警官が気の毒です 犯人は人間じゃありませんって
でも僕思うんだやつら ニュース解説者のように情にもろく
やたら情にもろくなくてよかったって
どうして言えるんだい やつらが狂暴だって
新聞はうすぎたない涙を高く積み上げ 今や正義の立て役者
見だしだけでもってる週刊誌
もっとでっかい活字はないものかと頭をかかえてる
整列して機動隊 胸に花をかざりワイセツな賛美歌を口ずさんでいる
裁判官は両手を椅子にまたがせ 今夜も法律の避妊手術
巻き返しをねらう評論家たち
明日の朝が勝負だとどこもかしこも電話は鳴りっぱなし
結局その日の終わりとりのこされたのは
朝から晩までポカーンと口を開けてテレビを見ていた僕ぐらいのもの

乾杯! 取り残された僕に
乾杯! 忘れてしまうしかないその日の終わりに
乾杯! 身もと引き受け人のないぼくの悲しみに
乾杯! 今度逢った時にはもっと狂暴でありますように


乾杯 / 友部正人

次の月曜日。特に急ぎも無いので仕事を休むことにして、この日も朝から晩までお手伝いする。ダブワンを見てやりたい気持ちもあるけど、やっぱしそんなことを言っている場合じゃあない。いえこれはウチとこの災害復興なのですと言い張りながらオートバイを触るなんて、着の身着のまま、ろくに眠ってもなくて食事もきちんと摂れているのかさえわからない近隣の人たちのまえで、できるわけがない。

消防団の若者が16号の夜にお年寄りたちの避難活動に追われて、浸水が引きはじめた午前3時になって「じゃあウチ(自宅兼店舗)も床上浸水しているみたいなんで、家に戻りますね。」と言ったという涙無しには聞けないお話を、聞いたばかりだったわたしは、気合いイッパツ軍手をはめタオルを頭に巻いて家を出た。

インドの100倍 食いながら
何がジョギング アウトドア
欲求不満で食いすぎてるだけ
インドへ行ってみぃ 囲まれるでぇ
IN NEW YORK CITY


IN NEW YORK CITY / 豊田勇造

浸水から一週間が経ち、自衛隊が撤収した後だというのに(この点にはこだわりたい)、まったく手付かずのお宅があった。そこは、わたしが幼少の頃、祖母に手を引かれて何度も行った玩具屋だった場所だ。いつもベレー帽を被ったジイさんが、店のまんなかにちょこんと座っていた。たぶんわたしが高校生の頃には廃業なさっていたように思う。

大阪から昨日ようやくここに入ったと そのジイさんの孫ですと名乗った女性が言った。水色に塗ってある木製のドアを開けると、たぶん自作の電子アラームが鳴り、ベレー帽のジイさんが新聞から目を上げるという光景が蘇ってきた。わたしより少し年上だろうか、彼女の許可を得て、劣化と浸水のせいで開かないドア-水色の扉-を力ずくで半ば壊しながら開いた。

もちろん電子音は聞こえるはずもなく、幼児の目線では玩具のパラダイスに思えた店内はせいぜい四畳半。昔の家だから天井が高いわけでもない。がらんとした店の床には泥水。一段高いところにジイさんが座っていた畳の間があって、湿ったあと中途半端に乾燥してねじまがった畳が4枚と半分。

「大切なものはありませんから、全部処分してください」その女性が言ったので、片っ端から土建屋さんの2トンダンプに運んでいった。廃屋だったとはいえ、全く手付かずのお宅をイチから片付けるという行為は、わたしにとって初めてだった。ましてや日々暮らしているお宅が浸水しているご家庭のことを思うと、けっこうキツいものがある。

土建屋さんがぼそっと呟く。もちろんそれは悪意があっての発言ではなかった。

「これだけ傷んでしまった廃屋やったら、壊したほうが早いんと・・・・」

うーむ。たしかにそれは言えている。がしかし、昔の建築物によくありがちで隣同士の家をお互いに支えあっているような建物。この中央の家を取り除いたら、左の家は右に、右の家は左に傾いでいって、やがては倒壊なんてことになるかもしれない。すぐに建て直しするわけにもいかないだろうし。

「よろしかったらどうぞ持って行ってください」と彼女が言った。

わたしの手には、未開封の電子ブロックが・・・・・ああそんなつもりでは・・・汚れっちまった悲しみは・・・

今度は、昨日まで自衛隊のみなさんが作戦の拠点にしていたあの広場に移動する。少しは期待していたのだが、やはり迷彩服の皆さんの姿は見当たらなかった。そのかわり、もう無い筈の粗大ゴミが、山のようになっている。何人か市の職員が、糊がパリッとよく効いている作業着を着て、委託業者さんたちに陣頭指揮している。大型バスをチャーターして市の内外から集まってくれていたボランティア団体の皆さんも、今日は居ない。罹災された家の人々が集まってなにやらボソボソと言っている。

「ヨソから夜のうちに、テレビやら冷蔵庫やらを軽トラックで運ぶ人の姿が後を絶たなかった・・・・」

ええい 災害復興の手を邪魔するんじゃねえ。恥を知れ!

暑い暑い焼けるように暑い 細い路地のまだその奥で
ダンボール地面に敷いて 泥のような工員の昼休み

ここにも朝から働く人と 夕方起きて働く人と
朝も夜も働く人と それを横目で笑う奴らがいる


台湾 / 豊田勇造

リサイクル屋が火事場泥棒よろしく、新しい冷蔵庫だけを選別して持ち帰るところを見た人もいた。修理して外国に売る業者なのだという。やれやれ。復旧を手伝うつもりがないんやったら、来んといてくれ。

昨日の日曜日と比べて、市から委託された業者さんの車がずいぶん減った。どうやら三分の一以下の数だったらしいことを、そのときの立ち話で知った。翌日火曜日はもっと減るらしい。委託業者さんにもキャパシティの限界があるだろうし、仕方ないことかも知れない。
なにしろ、市が県が国が「だいたい片付いた」という認識があるんだろうから。

「ニイちゃん ごくろうさん。ありがたいこっちゃ」

見かけることはあったが誰だか知らないジイさんから、キリッと冷えたリポビタンDを差し入れてもらった。

くわ〜っ。旨い。 ウマいんだけど、わたしの右手の中に新しいゴミができてしまった。

漁師の寒さが わかるもんかと 呑んでくれなかった函館の酒
おれの唄 ジェフベック雨の音楽堂
水かぶり踊ってくれた男に おおきに
思えば嬉しく懐かしい 俺の海の始まり


俺の海の始まり / 豊田勇造

しかし災害支援というのは難しいもんだな、と思った。 市職員や自衛隊員の皆さんにあっては、さまざまな指揮系統のなか、公務員としての役割行動の範囲を越えるわけにもいかないだろう。それから、わたしも含めてボランティア市民は「わたしが行かなきゃ」と悲壮感いっぱいの決意に後押しされて、自分の仕事と生活に支障のない範囲で片付けのお手伝いをしてあげている、のに過ぎないんだ。

確かにわたしも感謝されることはあった、がしかし浸水家屋から瓦礫を運び出すために見ず知らずの支援隊が、土足で上がりこむ姿を見て、何と思っただろう。事実、わたしは両日とも、一度も長靴を脱がなかった。汚水でふやけたとは言え、アルバムなど家族の思い出をパッカー車に積み込むのは辛いなあと思いながらも。

火曜日。わたしにも自分の生活がある。職場へと向かおうとした瞬間、気持ちが萎えた。自宅を出てすぐ右あたりに、隣近所用のゴミステーションがあるが、そこには昭和50年代式の2ドア冷蔵庫と赤色の薄汚れた二人がけのソファーが、まるで浸水しました持って帰ってくださいと言いたげな体をして、でんと捨てられてあった。

残念。このアベニューは罹災してないのだよ。いったいどこのバカがご持参なさったんだろうかね。虚しい。

さて、その日の昼間から夕方にかけて、台風18号が襲来した。ものすごい風と、ものすごい数の市役所広報車がやって来た。広報車は、ものすごいスピードでものすごく避難勧告をものすごく流しながら走り抜けていった。

ドップラー効果のせいか、何を言っているのか聞き取れなかった。そもそも強風で、どの家も窓を閉めている。まったくピント外れだ。

対応の(過敏なまでの)早さは、ともかく認めよう。しかし広報車を使うのなら、もうちょっとゆっくり走りながらアナウンスしてほしいもんだと思った。だいたい、何かしらの警報が出ているかどうかについて、わたしらはたぶん注意深くNHKなどテレビを確認することで、まず身構える。詳細な避難勧告は、わからないまま年寄りは、広報ウエッブサイトなんて見ないだろうし、若者も普段くそ面白くもない(という印象を持つ人が多い)タウンFM局をわざわざチェックしたりしないだろう。やっぱりピント外れだ。

いちおう市が、そうした媒体にイチ早く情報を流すことで万全を期しているといっていたので、悪趣味ながらそういった方面を確認してみた。個人的にはNHKのほうが親切かつ確実かなと思った。

16号と比較して、さまざまな条件が異なるから倉敷市沿岸部の影響規模は小さいと言われた台風18号だった。わたしたち一家は、その日は避難せず、二階で子供たちと静かにしていようと決めていた。

残念なことに、前の片付けが終わっていない何軒ものお宅が、再び浸水してしまった。「俺らのガレージは浸水を逃れたよ。」と先日は九州に居た友人から連絡があった。

台風16号の爪痕は、日々の暮らしだけではなくて、子供たちのココロにも影を落としたに違いないと思う。二学期が始まったら、10日程経ったころに、参観日と自由研究発表会なる行事などが催されるのはどこの地域でも共通のことだろうが、ウチの小学校区では、夏休みの宿題やらせっかくの作品がヘドロ混じりの海水に侵された児童も少なからず存在したらしい。妻が長女の授業参観に行ったとき、賑やかに展示されてある作品の数は、クラスの人数より2割程度少なかったように感じたらしい。

次女の出産前から今に至っては育児に追われる妻は、前と比べてほかのお母さんがたと会話できる機会が減っているが、お久しぶりお元気?と訊ねられたとき、それより大変でしたねと返すことが辛かったと言った。

「あきらかにどうしようもないものは処分したけれど、これからは仕分けをやりながら片付けることになる。最低1年くらい辛抱しなきゃ。」それを聞いてウチは運が良かったと思ったとも言った。

確かに我が家のダメージは、植えたばかりの秋獲れキュウリの苗が定着しなかったことや、ケイトウの花が彼岸を前に萎れてしまうといった、花壇と家庭菜園に及ぶ程度だった。花も枯れたけど雑草も海水でぜんぶ枯れたのは、これからのことを考えると、除草の手間をそちらに向けることができるぶん、ラッキーだったかも知れないと思うことにした。

さあお待たせしました。この次のパラグラフから、そちら方面つまり俺のオートバイ編となります。

夜が深みにはまりこみ罵声だけが生き延びている
おでことおでここづき合ってのんべえさんたち
にぎやかに議論に花を咲かせている
僕はひとりすまし顔 コップに映ったその顔が
まるで仕事にでも来たみたいなんでなんだかがっかりしてしまう

誰かさんが誰かさんの鼻を切り落とす
鼻は床の上でハナシイと言って泣く
誰かがんが誰かさんの耳を切り落とす
耳はテーブルの上でミミシイと言って泣く
誰かさんが誰かさんの口を切り落とす
口は他人のクツの上でクチオシイと言って泣く
ぼくは戸を横にあけて表に出たんだ するとそこには
耳も鼻も口もないきれいな人間たちが
右手にはし 左手に茶わんを持って
新宿駅に向かって行進しているのを見た

おお せつなやポッポー 500円分に切符をくだせえ


乾杯 / 友部正人

9月11日 土曜日。 夕方、師匠先生宅にお邪魔する。

十日ほど前になるが、次の休日に軽トラック「スバル・サンバー」を貸してくださいとお願いしていたのが、自分のための時間が取れなかった。明日こそはオートバイのチェックをすると決めたのだ。

いやしかし、これはまたいったいどうしたことかというくらい大小取り混ぜたオートバイが、師匠先生宅の庭先にわらわらと並んでいた。浸水した地域のバイク屋さんが、お客からの水没車修理の依頼に対応しきれなくて、外注として請け負っているらしい。

塩水が相手だから本腰を入れて頑張っても、電装やらキャブレターまわりのチェックが本当に大変で、一台をこなすのに平均3日くらい必要なんだよ、と先生は言った。

むかしトライアル全日本選手権の四国大会が、徳島県吉野川河川敷で行われたのを見にいったことがある。競技中に大岩から落ちて、あわれ沈没したTY250Rがあった。その場で天地を返されたその競技車は、プラグホールとエアクリーナから水を吐き出して、あっという間にコンペに戻っていったが、その光景はわたしの記憶のなかで鮮明に残っている。あれと同じというわけにはいかないだろうが、わたしもW1S-Aの復旧をしたいと思う。

師匠先生から、水没車両をリペアするとき留意すべきいくつかの極意を伝授してもらった。そして、明日は早朝から頑張ります、と感謝いっぱいでサンバーのキーを預かった。

翌日の日曜日。

夜明け過ぎの午前6時、ガレージのシャッターを開けてまずはW1S-Aを積み込んで自宅へと向かった。浸水翌朝にエアクリーナが濡れていなかったことを確認していたので、キャブレターはまず大丈夫だということはわかっていたが、近隣の浸水状況を照らしてよく考えると、もしかしたらポイントまわりまで海水に沈んだかも知れないなあということが、じつは数日前から気になっていた。

それからブリーザを通って、海水が腰下になだれ込んでいるおそれもある。ただこれは趣味の世界。何が起こっていたとしてもわたしの生活には支障はない。命までは取られない。ちょっと家族の次に大切な財産かもしれないこのオートバイを失うだけのことだ。

われながら、ちょっとクールでドライな気持ちで、庭先にブルーシートを敷いて四隅をコンクリートブロックで押さえた。そしてサンバーからW1S-Aを降ろしてブルーシートの真ん中にメインスタンドで停めた。W1といえばオイルで満たされている隔壁は周知のとおり、エンジンそのもの・クラッチ・ミッションの3系統があるが、今回の浸水を機会にそれぞれのオイル交換をやってしまおうというくらいの軽い気持ちで、まずはエンジン底部分のオイルパンを開放してみることにしよう。

俺のオートバイW1S-Aのエンジンについて、これまでにわたし自身は開けたことがない。無力だった頃、ほんとうに何の力もなかったまだ若かった頃に、クレジットで修理代を払ってバイク屋さんでガバナーとクラッチを直してもらった経緯はあるが、それ以外の修理履歴についても、わたしは知らない。まず10のメガネレンチでボルトを取り外した。どんな液体パッキンで押さえ込んでいるのか不明だが、きっちり底の蓋は貼り付いている。プラスチックハンマーで丁寧に叩いていく。やがては開放できるだろう。

すると・・・・うげぇ

ぽたぽたと透明な液体が、やがてじょわじょわと、そしてついにはどばーっと流れ出る様を見てしまった。受け皿に溜まったものを舐めてみると塩辛い。ということは、やはりきっちり腰下浸水してますねと静かな気持ちでその流れを見ていた。やがて黒っぽいワコーズ・オイルのなれの果ても混じりはじめる。受け皿には、昭和40年〜60年くらいの小学校給食でゼリーを冷やし固めて配膳台まで供するための器だったモノを使って3系統それぞれのオイルの状況を見るつもりでいた。しばらく動かしていない間、オイルがドライサンプ・タンクから下りてきているにせよ、その器が満杯になるのと違うかというくらい、海水混じりのオイルが吐き出されたことには正直驚きを隠せなかった。

妻がわたしの様子を見に来た。庭先に布団を干すスペースを探すついでだった。

「これからこのあたりは軽油の霧に満たされてしまう。だから物干し兼オートバイ格納庫でを作業しないようにしているのだ。そこんとこ夜露津苦。」

妻はW1S-Aの被害状況を見て、ご愁傷様と乳児用布団を手にしたまま玄関へと消えた。

エンジン内部洗浄に、いちいちパーツクリーナを使っていたのでは、いったい何本使わなければならないのだろう。それが途方に暮れるくらいの数になりそうだったので、昨日のうちにエアツールを調達しておいた。用意したのは、圧縮空気と共に勢いよく水やら洗剤を吹き付ける工具だ。こいつのタンクに軽油を詰めて、がんがん洗浄していくつもりだった。

いつものサンデー・レストアラーみたいに、不都合部分をじっくりチェックして修繕していくよ、なんていう余裕などきっと無いだろう。

リペア開始〜ブタのケツ〜(東大一直線風味)。気勢をあげながら、タイミングギアケースを開いた。オイルポンプ・ギアの半分あたりまで乳化した澱が付着している。うーん、これはまずいよなあ。ひとまず目に見える箇所の洗浄を開始した。ついでにスラッジまで落ちてくれているのはありがたいのだが、そんなことに時間をかけているわけにもいかない。次のチェックに入ろう。一次減速装置だ。わたしはクラッチオイルのドレーンボルトを緩めた。

ピュ〜っちゅうてなんや ピュ〜とは!! 失礼な!!海水の浸入経路がまったく理解できないまま、ひとりわたしは激怒していた。受け皿に滴り落ちる流れが遅くなってきたところで、ぱっぱとクラッチケースを外した。パッキンがカバー側に貼り付いたままで切れなかったことは、ちょっとラッキーだと思った。

応急処置じゃ!と軽油スプレーをチェーンやらケース内部、そしてクラッチにブッ掛けていく。そしてジョイントホースの先をエア・ダスターに差し替えてブロウ。とにかく水分と塩分を切ることに終始しようとした。今日のところはオイラー(いわゆる油差し)で一次チェーンとクラッチに油分を補充して、クラッチケース・カバーを閉じた。

台風16号および18号のわが身内にもたらした被害は、釣具屋とW1S-Aたちオートバイだけで終わってはいなかった。妻の実家の物干し台の片方が、折れた。

「というわけで、実家救援作戦を展開するため実家に向かいます。」と二人の娘を連れて妻はTB号のステアリング・ウイールを握った。

さて。前述したが、もっとも懸案だったポイント・ガバナーまわりに目を移すことにした。蓋を開けると、乾燥はしている。今は濡れてはいない。少なくとも海水が出てきて脱力する、というようなことはない。がしかし、ベースプレートをポイントケースから取り外してよく見ると腰が砕けた。粉を噴いている。

はいはい。ポイントまわり全バラ及び交換〜! 嘆いている時間があるなら、さっさと手を動かして対策を打つべし! うちには陣頭指揮車やら被害調査車なんて必要ない。

ガバナーに目線を移す。おそらくポイントのスリッパーが接触していた部分に海水が滞留してしまったせいだろう、カム山に赤錆びが出ている箇所がある。それからウエイトのシャフトにも同様に、溝に残った海水がそうさせたのだろうと思われる錆を見つけた。

ま、アカンかったらスペアのガバナー使たらよろし、と明るく前向きに、今度はガバナー救出作戦の展開を開始する。

一番目の作戦展開ということで、ぱしぱしとロックワッシャの爪を起こし戻していく。適当なボルトをオイルポンプギアにネジ込んで・・・・以下省略(手順については誰のオートバイをごらんください)

あかん。クランクシャフトのピニオンギアが緩まない。力いっぱいふんばったら、レンチが滑って右のひとさし指と中指を怪我しちゃったよ〜。大ピンチ。進捗に悪影響の危惧。わたしは勇気ある代案を実行することにした。

二番目の展開、つまり代案は、妻が物干し台を調達すべく、近所最大手のホームセンターに居そうな時間帯を狙って、携帯電話にPINGすることで始まった。

「すまんが、工具コーナーに行ってくれ。そこでこんなもんが五千円くらいで陳列してあるはずだからパッケージを見てくれ。22のボックスってキットの中にあるかい??」

事態は有事なのである。今までわたしの中では禁じ手にしていた「エア・インパクトレンチ」を、ついに調達することに成功 っていうかなんと申しますか・・・・

妻の戻りを待つ間、今度はミッションのドレンを開放する。

やっぱしか〜。ショワショワと海水が出てくる。わたしはミッションカバーを開いてすぐのところに、ドレンでは抜けきらないオイル溜まりがあることを知っている。二も無くカバーを開け、軽油スプレー開始。ほんまに凄いことになってるわぁ。浸水したら即廃車を勧められるワケがよくわかるワ。

浸水ダブワンをリペアのプロに預けたら、いったいナンボ取られるんやろかなあ恐ろしや〜、などとぶつくさ言いながら時計を見ると、もうとっくに昼をまわってた。疲れている筈だ。くたびれると自然に独り言が大声になってしまう。

妻たちが戻ってきた。にぎりめしを作ってくれと頼んで、インパクトレンチの説明書を読みながら準備を進めた。そのとき上の娘がペットボトルに冷たい麦茶と乾いたタオルを持ってきてくれる。ううう。とうちゃん目が曇って、取説の字が読めねえよ〜。

エア・ツールを使ったらそう感じることは解っていたけど、拍子抜けするくらいあっさりと効率よく、タイミングギアが取り外されていく。そしてガバナー救出に至った。灯油に沈めてから歯ブラシで汚れを掻き落とす。エア・ブロウしてからCRC5-56をスプレー。全バラは後回しだ。なぜなら・・・・・

ポイントケースが水没したのなら、当然あそこもヤラれているだろうと気付くべきだったのだ。プライオリティはそこが一番だったのではなかろうか、と後悔した。本当に冷静だったら瞬時にわかることだが、やっぱしアツくなっていたようだ。その場所にようやく注意が向いたのは、粉を噴いたポイント・ベースプレートを取り外したときだった。

そう、ダイナモ。発電機。 自身のシャフトを回転させれば、電気を発生してくれるメカニズム。逆に電気を流せばシャフトが回転する、つまりいわゆるモーターでもある。モーターが水没したから、この町が壊れのだ、という話題を思い出して戦慄した。

どこの家庭にもたいていある冷蔵庫が水没で処分されることになったのは、コンプレッサを駆動するためのモーターがダメになったからだし、わが繊維の町の企業にあっては、ソーイングマシンや織機を駆動させるモーターが海水に沈んだことで億単位の損害を被ったところもあると聞く。

モーター=ダイナモ。悪い連想は、とめどなく連鎖して続いた。ガバナー・ポイントの損害具合を考えると、再起不能かも知れない。

そんな時のために、走る車検一年半付きの部品取り車があるんでしょうが!!と、へこたれてうなだれているわたしに、妻が渇を入れた。もちろんそれはW3A改のことだ。すでに太陽は西にある。嘆いてばかりはいられない。今日できることは全部やる。それが気の進む進まないに関わらず。

ハーネスを外し、アースを抜く。左側のホーンを取り、ダイナモを固定しているクランプを緩める。そしてタイミングギアケース側から木片を当ててハンマーで叩き出した。傾けても水は出てこないが、根元に巻いてある紙テープは、一度濡れて乾燥した襖のごとく、いびつに浮いている箇所がある。これをバラして中身を確認するべきなのかどうか、そして今日あるいは近日中に修理に至ることができる物理的な時間があるかどうか、自信がなくてずいぶん迷った。

師匠先生に連絡を取ってみた。進捗状況を報告してから、ダイナモの状態を伝えた。

トラックを戻すときにいっしょに持ってきなさい、というそのお言葉に甘えることにした。なにしろ、本日展開してしまったブルーシートの上にはW1S-Aそのものと、暫時取り外した大切な部品があって、タイミングギアケースとミッションのカバーを取り付けたり、エアツールをはじめとする工具を仕舞うなど、いつもの庭先に戻すのに、あと2時間は必要だし、その頃には日没だろうと思ったからだ。

それに、わたしがおっかなびっくりでダイナモの分解修理をするのと、師匠先生にお任せするのとでは、ターミナル・ケアを必要とする人に対して、民間療法の煎じ薬やら祈祷を施すのと、最新鋭の設備と百戦錬磨のスタッフがずらりと揃ったシステムの中で看取るのと同じくらいの差があるのではないかな、と本気で思ったのだった。

大粒の雨が降ってきた。庭先でエンジンを開けられているW1S-Aには大打撃だ。通り雨だろうから、と車体カバーを被せてしのぐことにするが、まさに踏まれたり蹴られたりという状況だった。
カバーをかけた下側からアタマと両手を入れて、張りぼてのタイミングギアケースに蓋をする。続いてミッション、そしてポイントカバーをネジで締めていく。そうしているうちに雨があがった。ブルーシートの上に散乱している工具は、油と泥と雨にまみれている。ぜんぶウエスで拭かなきゃと溜息をついたとき、サンバーの荷台に「何か忘れちゃいませんか」と言いたげなシルクロード1号が載っていることに気付いた。

荷台をそのまま作業台にさせてもらうことにして、ドレンからオイルを抜く。なぜかシルクロードからは海水は出てこなかったので、軽油スプレーで洗うことは敢えてやらず、安物4リットル千円のオイルを満たすことで、今日のシルクロードはおしまいにする。本当はブレーキも分解清掃してやらないといけないことはわかっているけど、一日のうちで作業できる量というものには限界がある。荷台のシルクロードは、そのままガレージに戻すことにした。

この詳細はいつか、短距離ライダーの憂鬱の記事にするかも知れない。

庭を片付けた。そしてガレージに行った。もうすっかり薄暗い時間帯で、みっつ隣の枠に、水没ホンダFITの代車なのだろうか、ずいぶん古いスズキ・ジムニーが入って行こうとしていた。ジムニーの彼は車から降りて、サンバーからシルクロード1号を降ろそうとしているわたしの横を歩いて通りながら言った。

「お互いたいへんですねえ」

「がんばりましょう」

「ええ がんばりましょう」

交わす会話の内容はともかくとして、ほとんど見ず知らずの人とコミュニケーションを取ることができるなんてのは、なかなか無いことだ。程度の大小に関わらず罹災者のみんなが共通の恐怖体験をして、それからなんとかして、すこしでも早く、そしてできるだけ元どおりの生活を取り戻したいという強い意志を持って動いているから、こんなことがふつうにあるんだろうなと、少し嬉しくなって、わたしはダイナモを持って師匠先生宅に向かった。


最後は、ジョバンニですかい。アイリーさん。


おおっ。ティナちゃん いらっしゃい。
あらためて紹介するまでもなく、FANATIC BIKE LOVERSで超有名なキャラのティナちゃんです。


ちぃーっす。って紹介してるじゃん。


いやまあ、そこはそれ。引用したものは、ちゃんと著作権を明確に表示してやね。


うぉら。おんどれのサイトの場合、盗用って言うのと違うけ?


それを言うな 横山〜


いちおう罪悪感はあるのね。
まあしかし、アイリーさんちが浸かってなくてよかったじゃん。


生活基盤を奪われなかっただけ、マシですわ。だからこんなふうに、記事にできるわけやもんね。


災害復旧支援活動も、したことだしね。


自分で記事にせんと、誰も褒めてくれへんし・・・いやいや偽善やとか自己満足の世界やと言われるかも知れんけど、やらんよりやったほうがええかな〜と。


3年前にウチの実家も床上浸水しちゃってさあ(注:名古屋市西部の河川氾濫)、自衛隊の皆さんにホントお世話になったわ。だけどさ、「浸水オートバイ、五千円で引き取ります」って業者のトラックが、近所を回ってたのにはあきれたよ。


ポンコツでも五千円になりゃいいじゃん?


ボケ。「五千円支払ってくれたら」って話だよ。


ひでぇなあ。さすがにウチとこでは、そんなのはいなかったけどサ。
しっかし自然災害やったけど、そのときの現象だけを切り取って報道されたことってのが、今回いちばんひどいなあと思ったよ。


あたしも知らなかったよ。人災なんかでも、ニュースって、もしかしたらそうなのかも


9.11は風呂上りにビール呑みながら見てたし。3.17のときなんて、ドーンと来て「誰やねん こんな朝早くからワシを起こすのんは?ワシ、スキーから戻ったばかりでやっと2時に布団に入ったことなんやでぇ」ちゅうて、もっぺん寝たもん。


アイリーさん。あんたそんなこと言ってたら、囲まれるでぇ


だって、そのときそれが何なのか、わからへんもん。それに次の日大事な会議があって・・・・だいたい俺ひとりがあのとき動いて何ができるかっちゅうねん。


言い訳はしなくていい。


神戸には行けたかも知れんけど、ニューヨークまで支援に行けるわけがないよ。気の毒なことやなあ。はやいとこ復旧できたらええなあ、ちゅうてテレビ見ながら、ココロで応援してた。そんで今回は、自分とこの町やから、ホンマに早よ何とかせんとあかん〜って気になったもん。


今回の災害で罹災された皆さまに、心からお見舞い申し上げます。


それから尊い命を奪われたかたのご冥福をお祈り申し上げます。
かけがえのない思い出の品物など財産を失ってしまった皆さま、ご商売を止むなく廃業なさってしまった方々、止むを得ず転居なさった方々、倉敷市だけじゃなくて、玉野市や対岸の高松市で罹災された皆さまがた、それから今年の自然災害を被ったすべての皆さまがたにも、心からお見舞い申し上げます。


それと、初期災害復旧に尽力くださった、陸上自衛隊のみなさまにも、素直じゃないアイリーに代わって感謝申し上げます。


ちゅうても、プロ野球の選手会長の行動に快哉をあげて、一時的に彼の人気がハネあがっている現象みたいなもんで、またそのうち、眉をひそめたりなんかしてね・・・・


だから、あんたそんなこと言ってたら、狙撃されるってば


はい。とにかく感謝してます。でも、あのデカいヤツじゃなくって、できたら軽トラック、せめて1トンダンプとかで支援してほしかったなあ、って気持ちは強いです。


そんな車両なんて、きっと無いって!
車両で思い出したけどサ、アイリーさん。W1S-Aはどうよ?直りそうなの?!


ひどいことになってたなあ・・・・。
でもそこはそれ、感じ悪い言い方になるけど、おれには経験も実績もあるしね、95パーセントOK!いけるんと違うか、と思ってます。


残りの5パーセントは?!


消費税。しかも内税。


So you think you can stone me and spit in my eye
So you think you can love me and leave me to die
Oh baby, can't do this to me baby
Just gotta get out, just gotta get right outta here


Bohemian Rhapsody / Queen

続く

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