小説の「島」は、岡山県笠岡市に浮かぶ白石島のことです。
今から数えて10年くらい前のことですが、ちょっと腕とパワーに自信を持つ何人かといっしょに、笠岡港から白石島まで日帰りで往復するといった シーカヤック・ツアーをやったことがありました。その初めての上陸作戦のとき、わたしはへとへとに疲れてしまったので、景色を楽しむとか、釣りや潜りなどの遊びをする体力的な余裕は無くて、すべて復路のために残しました。
その日の夜です。家に戻ったわたしは、ビールを飲んでいました。そういえば片岡小説のなかで、白石島が取り上げられていたよなあ、ということを思い出して、本棚から取り出したのが「彼のオートバイ 彼女の島」だったのです。さっそく島の情景を描写してあるシーンだけを、拾い読みしました。
片岡小説の「環境設定」は虚構だとわたしは思い込んでいましたが、わたしの「海側から見た光景」と小説とは ほぼ一致していました。ということは、綿密な取材があった、ということは間違いないわけで、その時から、わたしは白石島の虜になってしまったのです。
当時のスナップ写真の日付によれば結局、その年には、4回も白石に行ったみたいです。
二回目に行ったときは、わたしの友達とわたしの弟との3人でカーフェリーを使って島に渡り、島のコーストラインをぐるりと一周したのでした。
フェリーは、1日に4便になっていました。つまり、小説の取材があった当時からは倍増されていました。
友達と弟は、カヤックについて、どビギナーでした。体力的な負担を軽減させるため、比較的疲れない「楽しくて良かったね」コースを選択した格好だったのを覚えています。ですから、ずいぶん体力にも余裕が残っていたので帰りのフェリーを待つ間、島の海岸や港、そして鎮守様などを見学しました。
わたしたちが乗る予定のフェリーは、岡山側から大勢の人間と車を運んできました。いつも この時間の便はこうなんですか?と、わたしの車に車輪止めをしてくれているおじさんに質問しました。
「今日から 盆踊りじゃ」
日焼けなのか肝臓病なのかは判断できない色黒のおじさんは、うれしそうに答えてくれたのでした。
3回目は、15人くらいの大所帯でテントを担いで行きました。その中のメンバーには、エルシノアのKさん、Z1のしんえもんさんも含まれていました。日程としては、ものすごく余裕があったので、2日目の朝に偶然早起きしたわたしは、サンダルを軽登山靴に履き替えて、島の頂上まで出かけてみました。
登山遊歩道とは名ばかりの、不規則な階段状ステアケースや急坂を登ったり下ったりしながら、あることを想像していました。
「セローくらいのオフ車を1台持ってきたら 面白いかもね〜。買出しにも便利だしね。」
仏舎利塔が この小さい島に忽然と現れました。それは けっこう大きな規模のものでした。信仰心の深い方々が、おおぜいお住まいになっているんでしょう。そしてわたしは、島の海岸線と稜線の両方を 自分の腕と脚で経験しました。
4回目は、腕っこきのおじさんとわたしの2人が フェリーで北木島(白石のすぐ南東隣)に渡って、岡山の最南端の島「真鍋島」を目指しました。
真鍋で1泊した帰路は、潮流を考えて わざと白石廻りで 北木島に戻りました。北木島は、石材産業の出荷のために1日にかなりのフェリー便数があるので、海伝いで白石に行くには たいへん便利なことを発見しました。
そのときに行った真鍋島の海は、わたしが知るかぎりでの岡山県No.1に格付けされました。当時封切られたばかりの映画のタイトルをもじって
「岡山で一番天国に近い島」
と わたしたちは呼んでいましたが、今から考えると わたしは全然 芸風が変わってないようです。 人格の成長が 年齢に伴わないトホホホホ現象ですね。
その翌年には、わたしのOCEAN指向が強くなりました。それで、山陰あるいは高知徳島に行く機会が多かったのでしょう、白石には1度しか行かなかったようです。
さらに次の年、わたしは何年ぶりかで、わたしのカヌー道の師匠と 北木〜真鍋ツアーをやりました。師匠とは、例の「プロ・カメラマン」さんだったりします。
この時、北木に戻ったわたしたちは、車で港に向かったのですが、到着したときフェリーはもう港をでてしまっていて、100m沖合いを航行していました。この次の便は約2時間後になるようでした。
落胆したわたしたちの姿がフェリーから発見されたのでしょう。フェリーは戻ってきました。人情に触れたことで、やっぱし、ホームはいいねえ と感動したのを覚えています。そして、アイルトン・セナの訃報を聞いたのは、そのフェリーの中のことでした。(← 本題に関係なし〜)
自宅の近くに このようなすばらしい環境に恵まれているということは、本当に幸せだと思います。この地にわたしが在るのは、両親のおかげです。心から 感謝しています。
さらに次の年です。わたしはついにオートバイで白石島に上陸しました。
自宅から笠岡港までは、高速道路を使えば約30分で到着します。そこから高速艇では20分、カーフェリーなら50分で白石島に渡ることが出来ます。
その時は「朝ちゃん」夫妻がウチのシルクでタンデム、わたしと妻(そのときはまだ結婚するまえだった)はW1S-Aに荷物満載でタンデムということで出かけてみました。もちろん下道で。
朝ちゃんは、わたしの 高校〜さぬきウドン大学の同級生。クラスも ほぼ一緒だったという、きわめて珍しいパターンの友人です。
「日帰りで戻るよ。今日は海水浴だけでいいんだよ。」
そのように言っていたので、島に到着したら、まあ海の家というか、奥様のためにシャワー施設をキープできれば大丈夫かな、わたしらは、どこででもテントを設営して寝ることが可能だしね〜っと、実に軽い気持ちでいました。
海水浴場と民宿の間にある道をシュタタタタドゥシュルル〜ンってなかんじで、駆け抜けようとしたところ、おお ひさびさにバカがきたなあ〜 という感じのいくつかの視線に、気づきました。なんだか恥ずかしくなったので、わたしたちは一気に海水浴場の一番奥まで走りきってしまったのでした。
わずかの区間ですが、砂浜が途切れる場所には 左に山肌がみえる小さなブラインドコーナーがありました。コーナーを過ぎたところには、美しい小さな砂浜があって、そこの目の前には「貸しシャワー」と書いた看板を掲げてある民家を見つけることができたのです。
朝ちゃんが、そこのおばあちゃんにシャワー料金(荷物一時預かり代金こみ)を支払いました。
ジロリ
「あ〜んたがたは、どなんすんで〜」
いやいや わたしらは 今夜適当なところで寝ますし、別にいいですよ〜とやんわり断ると
「ここは キャンプ場なんじゃ」
と 芋畑の山を指差しながら一喝するばあちゃんに すっかり圧倒されたわたしたちは、キャンプ施設使用料金1,000円を支払っていました。
会社勤めをしていると、接待***というのが、多かれ少なかれ付きまとう場合がありますが、以前に接待キャンプなる状況で 「オートキャンプ場 苦痛の2日間」を経験したことがありました。
地面に線がきっちり引かれて サイトが区画整理されている点については、まあ許せました。その枠内に 車両を止めることが義務づけられていました。これもまあイイでしょう。しかし、そこではその区画内に、流し台とコンセントが据え付けられていました
がおー。もう勘弁してくだちい〜。ここは ワンルームワンガレージのモーテル「 愛の鳥 」なのですか〜。
それまで、もともと利用する習慣がなかったのは貧乏のせいでしたが、その接待キャンプ以来、プライドもあって(いったい何の?)、有料キャンプをすることを避けるようになったのでした。
半日くらいしっかり遊んだ現在関東在住の朝ちゃんは、色白の顔をまっかっかにして言いました。
「ほんなら いぬるで〜。」(岡山南部の方言で「それでは家に戻ります」の意)
最終の船で 彼らは、朝ちゃんの実家に戻っていきました。
ばあちゃんは、客がわたしたちだけになっても なんだか忙しそうに 働いていました。日々の暮らしがあるわけなので、それは あたりまえのことなのでしょう。
「やれやれ」
ばあちゃんが 椅子に座って休憩を始めました。
ジロリ
「あ〜んたら、それに乗りょーんかなぁ。15年ぐらい前にゃぁー それん乗って ようけの人が来たのー。小説が どうのとゆうてのー。 おー混血の小説家(ママ)が最初にきたんじゃー
ほーそうかな そうかな 久しぶりにみたのー」
やっぱり、この白石にとってひさびさのバカ登場だったのね、とほほほほんとは思ったものの、それならそれでばあちゃんへのツカミはOKとなってくれたわけで、それまでの微妙な緊張感が少し緩和したことに、わたしは安堵しました。当然ながら、ばあちゃんは、これが「カワサキ」であることと、「ダブル」というオートバイであることをご存知でしたから、わたしはなんだかものすごく嬉しくなりました。お年寄りの手にかかれば、大概の場合、オートバイは「カブ」とひと括りにされてしまう傾向がみうけられますから。例をあげれば、ホンダのカブ・ヤマハのカブ・スズキのカブ・よんひゃくのカブ・ナナハンのカブ・トライアンフのカブ(ああ、これは実在するなあ)などなど、ズッコケ会話になることがかなり多いものです。
親愛なるばあちゃんが言いました。
「あ〜んたら、晩のご飯は どうなさるん。」
「港の食料品店でなんか買ってきますわ。」
そのように答えたところ・・・・
ドン デン ガン
ばあちゃんは われわれの目の前に 鍋と釜と 茄子と南京を並べ始めました。
それから、彼女は何箇所かを指差しながら、道具はそこにあるぞ、自由に使ってイイ食材はそれだぞ、というようなことを言ったあと、再び家の中に戻って行かれました。
鍋の中には、前夜の客が作ったカレーが、釜の中には、昼に帰った高校生風の団体が今朝炊いたという飯が、それぞれにたっぷりとはいっていましたので、そのあとの展開がぐっと楽になるぞと思ったことを、今でもよく覚えています。
そしてその夜のメニューの構想ができあがりました。ビールにバターに卵、このくらいがあれば準備は整いそうです。
ダブワンからは、すべての荷物が降ろされていました。
キュキュカチ シュタ ドロロン〜
あたりまえのようにエンジンはいつもの音を奏でました。そして、今朝来た道を通ってお買い物です。わたしたちは水着のままでタンデムしました。
その日はやはり盆でした。照れながらダブワンで走った砂浜のあたりでは灯篭流しが行われていました。
ガーリックライス夏の焼き野菜カレーソース添え・オニオンスライスサラダの卵黄和えカツヲ抜きを、ハーフパイントのビールで流し込んでいたとき、彼女(ばあちゃんのこと)の孫が二人、浴衣を纏って飛び出してきました。それから孫たちに続いて、ばあちゃんが登場。
「白石踊りなんよ〜」
おおっそれはラッキー! 後片付けが終わったら、見に行くことが決定〜。
「でも 本踊りは 明日なんよ〜」
おおっそれはアンラッキー!明日は家に戻らないといけない約束がある。本踊りは次の機会かな・・・
踊りの場所は食料品店の奥のほうにある広場ということだったので、ダブワンで行こうとしたら、ばあちゃんから咎められてしまう。
「歩いていきなさぁ〜ぃ
次のカーブのところには公衆便所があ〜る。そこを左に入って、つきあたりを右に曲がって、次を左に。そして右に行って・・・・ジグザグに行ったら、広場に出るけん〜」
ジグザグとは イカすぜぇ! ばあちゃん〜。
武器にもなりそうなサイズのマグライトと、キンキンに冷えた缶ビールを持って、言われたとおりに道を歩いたところ、面白いものを発見。
琺瑯の看板が、黒塀に打ちつけられていました。
もしや、ここが白石美代子さんのお宅なのかな、と表札を拝見したところ、原田さんのお住まいでした。この島には、はらださんが、やたら大勢お暮らしになっていらっしゃるようです。
結局わたしたちは、広場に1時間以上も滞在してしまいました。観れば見るほど複雑な、そして重厚な、またあるいは可憐で、そして勇壮な踊りに魅了されたのです。
よぉ〜ほぉぃ〜 よぉ〜ほぉぉぃ よぉおいやさぁ〜
ものすごくゆったりとしていて、そしてものすご〜く後ろに「タメ」を作った、シンプルながらも、おいそれとは感覚がつかめそうにない和太鼓の拍子に、ときおり掛け声がかかります。これに謡い手が、おそらく御詠歌と思われる言霊を被せていきます。それは「くどき」と呼ばれるものだそうです。
50人くらいの老若男女が櫓のまわりにいて、全員が同じ囃子のなかで 全然別の踊りをしているように見えました。そこには、薪能とはまたひとつ異なる趣きの世界が繰り広げられていました。
満月の夜でした。わたしたちは、ばあちゃんちに引き返しました。
ばあちゃんは、庭の椅子に腰掛けて海を眺めていました。
つい今しがたまで観ていた踊りに興奮さめやらぬわたしたちは、その感動をばあちゃんに伝えるのに躍起になりましたが、
「本踊りは衣装を纏って踊るから、それはそれはもっと美しいのよ」
ばあちゃんが付け加えた解説に、われわれは地団駄を踏んでくやしがったものです。
聞けばやはり、10種類以上の踊り方が存在しているそうです。そしてそれぞれの踊り意味があって、島の人がみれば「ああ、この方の旦那さんは昨年お亡くなりになったのね」とか「このお嬢さんは初潮を迎えられたのね」などということがにはすぐにわかるいったことなども、併せて教えてもらったりなんかしました。
それからというもの、毎年盆になると、アイリーさん一家は、ばあちゃんに会いにいくのを楽しみにするようになったのでした。そしてわたしたち夫婦は、ばあちゃんちのお仏前にお供え物も携えて島に行くような、立派な大人になりましたとさ。
「片方の防波堤の突端には、濃いえんじ色の煉瓦でつくった、小さな夢のような灯台が立っている。」
その先で、彼女は待っている。そうだ、島は彼女自身なのだ。しかし、彼女(ばあちゃん)は、残念ながら、美代子という名前ではない。
ここで、我にかえって思い出すことが、ひとつあります。原作をふと読み返したとき、小説では白石踊りどころか、島の盆踊りの話題については一行たりとも記述されてなかったことを発見してしまったのでした。
くっそ〜。まんまと、大林マジックに陥れられちまったぜ〜。
もしもチャンスがあったなら、「白石島の盆踊り」をぜひ一度ご観賞ください。きっと、ただひたすらに驚嘆して、時間を忘れてしまいます。すごいです。
うち周辺(岡山県倉敷市の瀬戸内海沿い)に伝わる盆踊りも、実はご詠歌で踊りますがしかし、うちあたりのものと比較しても、なんだかぜんぜん違う不思議な世界なのです。