
アイリーさんは興奮していた。 俺も楽しかった。
よく整理整頓してからコトに臨んだから、余計にそれが素晴らしい時間に感じたのだろう。ささやかな興奮。向上しているスキル。アイリーさんのココロと指先のリハビリテーションには必要にして十分だったろう。
あるド平日の朝、アイリーさんは日曜出勤の代休を行使していた。下のお嬢ちゃんを保育園に送り届けたあとでいそいそと俺のカバーの上に洗濯カゴを載せ、物干し竿にバスタオルやらパジャマやらを引っ掛けている。
最近では料理だけでなく、洗濯にも主夫として守備範囲を広げるようになっているアイリーさんだった。それはやがてやってくる今日のような日に向ける無意識下での行動だったのかもしれない。もちろん自嘲気味の後付け屁理屈考察である。
アイリーさんはヤル気だった。俺には分かった。 その証拠に、俺と彼の周囲に洗濯物を干していない。算段あって遣り繰りしたのだろう。
今日の予定作業は、俺からW1Eを降ろす。ついでにW2Mも降ろす。それから俺つまりW1Fの大掃除、普段手が入れられない箇所にまで手を入れてピカピカに磨き込む、といったところまでを考えていた様子だ。
見込みだと、ほとんど埃は立たないと踏んでいた。CRC5-56は前回の作業の際に、今回緩めるだろう箇所に吹き付けておいたからニオイも出ないだろう。洗濯物の乾燥には何ら支障はないはずだ。
白いマグカップに濾れたばかりのコーヒーを注いでアイリーさんはMacG4の前に座った。なにやら考えごとをしている。ディスプレイには「進行性ダブル病-誰のオートバイ」が表示されている。自分の自分による自分のための記事だった。
三条へ行かなくちゃ
三条堺町のイノダっていう珈琲屋へね
あの娘にあいに
なに好きな珈琲を少しばかり
おはよう可愛娘ちゃん
ご機嫌いかが
一緒にどう
少しばかりっての
俺の好きな珈琲を少しばかりコーヒーブルース / 高田渡
そして独り言「どこまで横着できるんやろか?」
エンジンをフレームから取り外す行為は、たいていのオートバイの場合だとそれぞれを固定してあるボルトを取り去ったら、あとは力技になる。しかしW1Eの場合だとそう簡単なわけにはいかない。別体ミッションが工数アップの大きな壁となって立ちはだかるのをアイリーさんだって経験からそれを知っている。実行の前にシミュレーションすることは重要だと思う。例えば、コンタクトブレーカーのケースを分解して外しておけば、エンジンを降ろすのに工具が入りやすい、なんてことを思い出すのは実行するかどうかは別にして大切だ。いきあたりばったりだと手戻りが発生しやすいから。どこまでの分解が必要で、どんな作業は不要になるのか等、そうしたことの確認だった。
俺には、例の海で泳ぐ前からわかっていた不都合が、少しばかりあった。
クラッチは滑って滑ってどうしようもなくなって、バイク屋さんに入院したことがあった。1994年頃だったかな。それからシリンダヘッドに刺さるボルトがオリジナルじゃない理由、それはアイリーさんは知らない。アイリーさんちに来たときからずっと、俺のボルトはアレだ。
アイリーさんは若い頃、それが恥ずかしいことだと思っていた。何がだって?そのボルトを本来のものに直す勇気がなかったことをさ。オイルが噴き出してこない限り修理する機会を持たないよってこと、それだけ。できるならば今日の作業でも、そのボルトを取り外さなくても済む方法はないものかと考えていた。余計な考察をしたくないって心持ちだったんだろ。
俺を覆うカバーを取り去ると、アイリーさんはコンクリートの床を掃き清めた。それからブルーシートを敷き、その上に俺を移動させてメインスタンドで立たせた。オイルを完全に抜こうとしているのだ。一次減速装置のドレンとW1Eの底にあるオイルパンが開放された。
しばらく経った。一次減速装置のカバーが取り外され別体ミッションW2Mの位置をアジャストするナットが緩められていく。そうすることで一次チェーンの張力が低くなる。これでそのダブルチェーンを外すことができる。
クラッチ・ハウジングにある5本のナットを取るのに緩み止めのピアノ線を切断し、ボックスレンチにトルクをかけてようとしている。
アイリーさんは不思議な表情をした。均等に掌に伝わってくるはずのクラッチスプリングのテンションが、一本だけ妙に小さい。
その一組だけがナットだった。ほかのものはボルトだった。アイリーさんが知らないうちに、その4つが別のもので細工されてあったのだ。このせいでテンションのバランスが崩れていたのかも知れない。
ああ、悲しい。無知とは悲しいものだ。どんな気持ちで大切に大切に所有していたとしても、工場出荷時点とはあきらかに違う改造が施されて、それが原因で発生する類いの不都合を、無知なオーナーは止める手立てを持たない。アイリーさんが三人目のオーナーだけど、その間に何度ここを開けたのか俺は失念している。いつどんな理由でこんな処置を施したのか分かるならアイリーさんの気持ちも少しは晴れるかも知れないけど、どうしようもないね、こればっかりは。
アイリーさんはハウジングを手でくるりと回した。フリクション・プレートがケースに収めるのに設けられてあるケース側のスリットがイビツな形に、まるでささくれた状態になっていることに気付いた。「ふむ。これが踊っていたときに出ていた異音だったのか。きっとそうだ。カサカサカサ」アイリーさん、半分壊れちゃった。
トドメに言うけどクラッチハウジングなんて、十年も前にはすでに絶版パーツだって聞いたことがある。
三組のフリクションプレートを指で取った後に残る二組のフリクションプレートには、それぞれの抜けを防ぐためにピアノ線でワイヤロックがある。その線を切断してプレートを抜くこと二回、これでクラッチハウジングを取り外す準備が整った。インパクト・レンチでナットが緩められる。
一次ケースとW1Eを結ぶボルトが全部取られ、一次ケースは引き剥がされる。ここでアイリーさんは、W1Eの底にパンタグラフ式のジャッキがあてがった。
俺のロッカーケース・カバーを上から見たとき中央あたりにある4本のボルトを抜き差って、フレームとロッカーケースカバーを連結するプレートを取った。
あとはフレームとエンジンを固定してある前後4セットのボルトナットを抜き取りさえすればエンジンは降ろせる、とアイリーさんは踏んでいたようだった。複数の人員で作業するならいろいろな方向から力を加えてみたりして、エンジン腰上を取り外すことなく作業を終えることができるのかも知れないが、どうやら独力ではいろんな箇所に干渉することが避けられないからどうやら無理だと悟ったらしい、しぶしぶロッカーケースを取る準備を始めた。
先に言っておこう。やはりロッカーケース外周のダブルナットが刺さっていたシリンダヘッドのメスネジの山は、相当痛んでいた。それを知ったアイリーさんは心を痛めた。次に組むまでにヘリサートは必須だろうから。
そしてシリンダヘッドが、それからオイルタンクからホースを固定するユニオン・ボルトが外される。これで確実にエンジンは降りる。
「重たいんだろうねえ」 腰を痛めるのを回避したいアイリーさんは、学生の頃に買ったWindyブランドのウエストベルトを腰に巻きつけた。腰の上のポニョが締め付けられて苦しそうだ。でもこのテンションが腰を守るはずだ。我慢は必要だ。
床には、2×4材を50cm位の長さに切断したものが何本か並べられた。アイリーさんは右側から俺に向かってきた。
「うぉりゃあ」
膝を入れ腰を落して左手は一次ギアにかけ、右手はY字のダイナモ下部あたりに沿えたアイリーさんの膝があがり始めた。ひとつの命がふたつにわかれる瞬間が訪れようとしている。
程なくW1Eは材木の上に安置された。アイリーさんも安堵したのか休憩にすることにしたみたいで、手袋を取って屋内に入った。
手をキレイに洗ってウエストバンドを取った。お湯を沸かし、コーヒーを濾れる。集中力を切らさないようにするために、休息がどれほど大切な行為なのか、タバコを吸わなくなって3年と半分が経った今、あらためて感じているのだろう。
続く作業、ミッションが降りるまでのことは簡単だ。 ドライブチェーンを外して、ニュートラル・インジケータ用のギボシ端子を抜く。フレームとミッションを結ぶプレートを取れば勝負ありだ。
深い焙煎のコーヒーに心癒されながら、降ろしたばかりのエンジンを格納する場所についてアイリーさんは考えていた。やがて表情に生気がみなぎりはじめた。何か思いついたのだろうか、再びポニョにウエストバンドを巻きつけては勝手口のドアを開き、作業スペースに出た。
勝手口付近の壁面には台所からのダストシュートを一時的に蓄えるロッカーが備えてある。そのロッカーの足元付近がデッドスペースになっていることから、ババシャツの幸さんはその場所に灯油のポリタンクを3つ並べている。あと3つぐらいだったらじゅうぶんに置くことができるかも知れない。アイリーさんはそこに目を付けた。
2×4材を適当に並べて、そこまでに至る線路を作った。エンジンと腰をこれ以上痛めずに10cmの段差を登坂させることに成功できるかどうが鍵だ。
こうして縁の下のW1Eという状態が作り出された。不動だけどなんだかカッコ良い。
降りたばかりのW1Eは、次のホリデイまでここに置かれる。今、俺にはエンジンがない。でも大丈夫。俺はいつも俺。
待つのに慣れている。
忘れものは もうありませんねと
機関車は走るのです
君はいつでも僕の影を
踏みながら
先へ先へと走るのです
目がつぶれ
耳も聞こえなくなって
それに手まで縛られても
乗り遅れまいと 急ぎすぎた僕は
もう止まらない レールの上
藍色した嘘の煙を
はきながら
僕は君を愛しているんだ
目がつぶれ
耳も聞こえなくなって
それに手まで縛られても機関車 / 小坂忠