送って憂鬱

Nov 22,2006

1995年、土曜日、朝

往復四車線の新しくつくりなおされた国道が、瀬戸内海にそって北西にのびていく。この国道を北西にむけて走るとき、海は左側に見える。

夏の終わりも近い快晴の日の朝、青い空の広がりの下で、瀬戸内は、強く降り注ぐ陽ざしをいっぱいにうけとめ、鈍い銀色に輝いている。

ほんの何百年か前は島だったことがわかる山が、平野に連なっている。かつて海だったところは地続きになって縦横に道が走り、眼前を横切る高架には鉄道が通る。

高原地帯から、何本もの支流を集めつつ、長い一本の河が、瀬戸内めがけて流れ込んでくる。

市街地に入ってきてこの河を渡るために、国道はバイパスへの分岐点を持っている。国道から北にまわっていくそのバイパスは、南部に広がる市街地の外周をなぞっていく。

オートバイは、バイパスに入った。

早朝の明るい陽ざしのなかで、二台のオートバイのあらゆる部分がきらめいた。バイパスに入る部分のカーブで車体をゆったりと倒し、カーブを抜けて再び立ちあがるまで、陽光を斜めに受けて、それぞれのタンデムシートに女の子を乗っけているオートバイは、反射光のかたまりのようだった。

タンクは金色ベースに白抜きで「田圃の田」をデザインしてあるホンダのオートバイ。250、単気筒。もう一台は、OHVの二気筒。メグロ伝統のエンジンを左足で変速する仕組みと、前輪のドラム式ブレーキにはカムがふたつあるのが特徴のオートバイ。

ライダーたちは、島に渡ることにしていた。女の子のうちひとりが、フェリーが進む初夏の海面の色を見てはしゃいだ。産まれ育ちが埼玉県なら、この海もキレイに見える、ということだ。

島の砂浜で、四人は水着に着替えた。男たちは、お互いのつれあいのビキニを小声で誉めあった。照れながら。色白の彼がそんなことを言うのを、もうひとり色黒の彼が聞いたのは、長い付き合いのなかで後にも先にもこれが最後。

そう最後だった。

「なんじゃあゆうてシルクロードが、おまえんとこにあるんなら〜。」

今度結婚するから挨拶に、ってことでわざわざ関東は船橋から二人がやってきた。男性のほうがわたしの高校と大学の同級生、朝(とも)ちゃん。彼は瀬戸大橋の岡山県側の付け根のあたりが実家で、そこではお母さんがご商売をしながら彼のことを待っている。

彼らの結婚のほうが、われわれより一年くらい先だった。

「おお、このシルクロードはのお、わしの彼女の練習用じゃが〜。」

「お。」

そう言えばこの時点で、わたしは彼女、つまり現在の妻、の存在を彼に伝えてなかった。たしかこの日、妻は仕事か何かの都合で、ウチに来ていなかったと思う。

中型自動二輪免許を取得したばかりの彼女が取り回すことのできるオートバイということでわたしが選んだのがホンダ・シルクロード。そのフルノーマルでW1S-Aの横に佇む姿を見ながら彼は言った。

「原田よ。頼みがあるんじゃ。」

なんなら、と返したわたしに

「結婚式の立会い人ゆうことで出席しておくれ。それとシルクロードとヘルメットを2個、今からしばらく貸してくれ。」

このとき彼らふたりは、世の中にそんな車も存在したのか、とわたしを驚かせた車で関東からやってきていた。スバル・レガシィワゴン・ブライトン。ブラウンメタリックのFF車だった。

シルクロードは完全ノーマルだったから、朝ちゃんの彼女のために、座布団を二つ折りにしてキャリアに荷台用ゴム紐で結わえ付けた。ふたりともまるいメガネをしていた。

「ダブル使うたらええんじゃが。」

「免許が無いけん。それにダブルは燃えるしの・・・」

眼鏡の奥の笑顔が弾けて、わがシルクロードはチャイナタウンへ消えていった。

半日くらいして彼らが戻ってきた。

「原田よ。頼みが増えたんじゃ。」

何がなら、と返したわたしに

「シルクロードにはオプションでタンデムシートが設定されとったじゃろ。金を半分持つけん、買うて付けといておくれ。」

朝ちゃんにしてはずいぶん可愛いことを言う。幸せなふたりに逆らうことはできなかった。ええよ、とわたしは快諾した。そういや彼はずっとホンダ党だった。C50、MTX125R、のXL250BAJA、XR250BAJA・・・たしかそんな遍歴だったと思う。道理でシルクロードの仕様やら緒元なんかにやたら詳しかったわけだ。

結局お金は受け取らなかったと思う。このときついでに、センタースタンドも取り付けた。せっかく設定があって、部品が出るのだから。パンク修理のときなんかにも便利だし。

こうして何度か、彼らが帰省するたび、シルクロードは朝ちゃんが乗っていった。トリップカウンタに数字がうんと増えていったものだ。

彼らが結婚して最初の夏、今度いっしょに海に行かないか、と朝ちゃんからの企画が持ち上がった。行き先はどこにする?日帰りじゃないとだめだという彼にわたしが提案した。白石島はどうじゃろ。

そして二台のオートバイは国道を西へ向かった。そのときが彼とオートバイでツーリングをした最後の機会となった。

やがてわたしも結婚し、娘に恵まれた。朝ちゃん夫婦には子供がいなかったがそれもあって長女はずいぶん朝ちゃんに可愛がってもらった。そのあとしばらくして、朝ちゃんの身辺に大事件が発生した。現象だけを述べると、シルクロードのタンデムシートがもう不要になってしまった、ということになる。いろいろ相談にも乗ったしそれぞれの愚痴も聞いた。彼らにとって、結論をそうすることが本当によかったのかどうか計り知れないが、わたしにはどうしようもないことだった。

こうしてシルクロードのタンデムシートは、唯一の使い手を失った。そのままビニール袋に包まれて、新品同様の状態でわが家の納屋、エルシノ庵の不良在庫となってしまった。

くだらないとってつけたような話題だと眉を顰めるかたがいるかも知れないけれども、書いておく。つい先頃、この一連のシルクロード改修作業にあたって、タンデムシートを納屋から取り出してきたところだった。そのときには、もう今生では出会うことはないかつての彼のパートナーのことを、わたしは思い出したばかりだったのだ。本当のことだから、書いておく。

何を遠慮したのか、彼はわたしに病気のことを教えてくれてはいなかった。

お悔やみに行った際に聞いたのだが、昨夜10時間かけて東京の大学病院からいっしょに戻ったのよ、と彼のお母さんが迎えてくれた。スーパーカブ・ウイリーキングの彼が、アルケイックな笑みを浮かべて眠っていた。二度も臍帯移植をして無菌室に篭った闘病生活だったという。わたしは、わたしの父が同じ病気で旅立つ姿を見て知っている。だから彼の最期の様子が、わかる。

斎場の施設稼動状況を示すパイロット・ランプが灯った。彼の存在が消えていく。

高校生時代には家業の手伝いということで、三ナイ運動をみごと合法的にくぐり抜けてスーパーカブで闊歩する姿を、われわれ同級生たちは羨望の眼差しで見ていたものだ。それからわたしたちの時代ではリアルタイムぎりぎりだった、ボブ・マーリーのレコードをターンテーブルに乗せて、はじめて聞かせてくれたのも朝ちゃんだった。

わたしは、当時、共通一次と呼ばれていた大学入試で惨敗したので、二次試験は英語と小論文で滑り込むことができそうなところを探して、さぬきうどん大学の門を叩いた。いっぽう彼はほんとうは別の道に進みたかったみたいだが二次試験でしくじったので、共通一次試験が高得点だったなら無試験でパスできてしまう二次募集に甘んじた、ということは同じ学科で席を並べた入学オリエンテーションで聞いた。

その後はバカ生活。

「カブでウイリーゆうたら、こうやるんじゃ」

高校時代からずっと使っていたカブ50で、すぱんとうまいことやっていたなあ。アクセルワークと左足で自動遠心クラッチを巧みに操作してのウイリー。 わたしは90カブのパワーを使ってさえも立ち姿勢からでしかウイリーできなかったのに。でもダートをカッ飛ばすのは、わたしのほうが少し上手だったかなあ。剣山スーパー林道には何度も行ったなあ。エチオピア饅頭を初めて食ったときもいっしょだったなあ。

卒業を間近に控えたころ、新卒採用予定者研修から戻ってくるなりわざと留年したよな。「こんな就職はヤメだ!!」」って言って。自動車や飛行機は毎年何万人も死ぬけど原子力は累計してもたったの****人しか・・・・みたいな幹部挨拶を聞いたとかで。

きみのときにわたしがそうしたのと同じように、わたしが結婚式を挙げたときにも、裏方でコキつかわれてくれたんだったよなあ。

南無大師遍照金剛

彼の記憶はわたしの指先に残る棺の重さになった。わたしの老後もすでに始まってしまっていることをリアルに感じてしまうこの頃だ。次は誰の番だろう。やはり短距離ライダーは憂鬱なのである。うう(続く)

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