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=膝までクレージーズに浸かって=

Jan 30,2003

今年の秋は、ずいぶん長かったような気がする。

自分の在り方、心の傾き。そしてどうやって食っていくかそのことばかりを考えていたから、そのように思い込んでいただけなのかも知れない。

実際、収入のあてが無い状態ほど心細いことはない。人生の必要経費、なんていうと大げさかなと思うけれど、自分がやりたいと思う、そして得たいと願う報金額を提示してくれる求人物件なんてのは、僕の住んでいる町あたりには、無い。

少し探す範囲を広げてみようと思った。

自分が働きたいと思ういくつかの会社の門を叩いた。35歳位迄という要項に対しては、逆転一発を狙うしかなかった。

書類選考で門前払いを食らうこともあった。やはりボーダーラインは33歳までか。気持ちの中に焦りが生まれた。

それじゃあスキルを売り込むか、という作戦に切替えて挑んだ会社では、面接官との相性がとっても悪かった。こうしたケースも珍しい。今から考えると可笑しい話なのだが、まるでこの春に抜けたばかりの組織と、まったく同じ匂いがした。面接の最中、突然彼らに恫喝された。その理由なんて僕には考えられなかったので、最後に僕のほうから彼らの論陣について冷静に看破してから退席した。もちろん採否の連絡さえ、未だに届いていない。

予想したとおりだけど、まったく失礼な話だ。

いろいろな方向性を視野に入れて活動しているうちに、10月が終わろうとしていた。そして僕を迎え入れてくれる職場が見つかった。その採用に関する最終面接を受けたのは、失業保険給付が切れてからちょうど10日目だった。

「実際に仕事が始まるのは、12月からです。それまで待っていただけますか。」と言われた。

面談時の感触がずいぶん良かったので、たぶん僕は、ここで働くことになるんだろうなと思った。

じゃあその日までの1ヶ月余りをどのように過ごすか、ということを今度は少し余裕を持って考えてみることにした。スケベ心を出して、あと何社か会社訪問をするのも良いかもしれない。その職場と書面で契約を交わすまでの間、当然僕は無職だし、それに内定取り消しということだって、じゅうぶん考えられないことではない。

それから、どこかにふらりと出かける、というのも候補に挙げてはみたけれども、お金がない。

いくらかの余分があったにしても、ヒモ生活を容認していてくれる妻のことを考えると、とてもそんな気にはなれなかった。当然「ダブワンをする」ことにさえ、気が向かなかった。

再び仕事を始めるようになったら、なかなか実行できないことってなんだろう。とりとめもなくそんなことを考えた。連続した時間を自由に割くことができる今しかできないこと。そして費用が掛からないこと。

よく晴れた朝だった。

妻と娘を送り出してから布団を乾すと、普段寝室に使っている部屋は、がらんとした空間となる。僕はひとり、畳敷きの床を箒で掃いた。その空間はやはり和室に相応しく、障子戸が4枚あって、それを開放すると、廊下を隔ててから屋外とを仕切る窓と繋がっている。

その障子戸に対し、ちょうど平行に布団を敷いた場所が、僕の寝床になっている。いびき、寝言、歯ぎしり、金縛り、寝返り、いわゆる悪い寝癖オンパレードとなる僕には、いつの間にかその場所が定位置になった。そして、僕の手足が届く範囲の障子には、無数の穴や破れができているから、その寝相の悪さを推し量ることができる。障子というのは、小さなお子様が破って怒られるものと相場が決まっているように思うが、我が家では、僕がおもにその犯人だ。それは精神的に大人になっていない証拠かも知れない。

素浪人らしく、障子の張り替えでもやろうか、と思った。家でぼんやりしていても始まらないし、良い気分転換になるかも知れない。その昔に、さんざん説教をしたあとで、紙と糊を取り出してきた母の手順を、記憶から拾い出す作業から始めた。確か、最後の仕上げに霧吹きで濡らしていた。たぶんそれで紙を縮ませることでテンションを出すのだろう。古い紙はどうやって剥がしていたっけ。やはり水を使っていたような記憶がするけれど、確かではない。これは妻に訊いてみよう。

障子戸が無くても、まだ寝るのには差し支えるような時期でもなかったので、戸をすべて外した。いつでも水処理に取り掛かることができるように、バスルームに近い壁際にずらりと並べておいた。障子に新しい紙を張りつける作業そのものは、ぜんぶ明日一日で仕上げることにしよう。おそらく一度乾燥させて桟と紙が定着したあとで、もう一度紙ぜんたいを霧で湿らせることになるのだから、待ち時間が発生するだろう。その間に何か別の作業を入れておかないと、きっとまた無駄な時間だけを過ごすはめになる。

「台所が暗い。」妻がそう言っていたのを思い出した。

築13年。

設計時点では、あまり深く考えてなかったせいのか、我が家のキチンは非常に使いづらい構造だった。

西側の壁には出入り口が2つあって、その面の北角と南に外開きのドアが付いている。ドアとドアの間の壁面には、三人家族にはおよそ不釣合いなサイズの大きな食器棚が、壁に沿うかたちで置いてあった。

北の壁には、作りつけの食器乾燥機とシンクがあり、東の壁にはコンロがある。そしてその横に冷蔵庫。部屋の中心には、六人掛けのテーブル。

たしかに広々とした空間ではあったが、主婦あるいは主夫としての立場で考えると、いろいろ不都合な点が多かった。テーブルを3人で使うときにはあまり気にしなくてもよかったことだが、6人が椅子に座ってしまうと、食器棚から皿が取り出せない。いつも客人を蹴散らしながら棚を開けるというのは、みっともないことだった。

それからどこの家庭でもありがちなことだとは思うが、食器乾燥機が普段使う食器の専用棚になってしまっていた。その原因は簡単なことだ。乾燥機と食器棚が遠いせいだ。我が家にあっては、半歩下がって腰の向きを変え、それから3歩進んで棚の扉を開ける。それから手にもった食器を置いて再び乾燥機の前に戻る。また腰の向きを変えて乾いた食器を手に持つ。こうしたルーティーンが苦痛だったからだ。どうやらこんな現象のことを、家事動線が悪い、と呼ぶらしい。もちろん最近流行のリフォーム系テレビ番組からの受け売りである。

仕事を辞めたばかりの頃、ふとした思い付きから、食器棚の置き場所を換えてみた。この棚にはガラスが入っている扉があるが、その扉がシンクの方に向いて開くように置いたのだ。食器を本来の棚に収納するための改善、という点では大成功だった。ただ、部屋が狭くなったのと、合板が剥き出しになっている食器棚の背面がテーブル側から見えてしまうことが難点だった。その時妻は、その背面を覆い隠そうとして、布を画鋲で張り付けた。その時僕は、布一枚あれば裁判にも勝てる、と思った。

およそ8畳のキチンを、パーテイションで6畳と2畳に切り分けてしまう格好になったので、北側にあたるシンク側の2畳部分には、天井にひとつだけある照明の光が届かなくなってしまった。暗ければ明るくしてやればよいことはわかっていた。しかし、そちらがわの壁にはコンセントがないのを、僕は知っていた。

「じゃあ障子紙が乾くのを待つ間、電源工事をしよう。」そうしたら時間の無駄はない。それにあたって、不足しているものはなにか考えることにした。どちらにせよ障子紙を調達する買い物に出ないといけないから。

西側の壁の北にある出入口の脇には、シーリング・ライトのスイッチがある。そこを改造してコンセントを作ろうかと、まずは考えた。しかしそこから電源を取ると、そのあとの配線の引き回しがずいぶん不恰好になる。それではと僕は、かつて新築時に作図された配線図を探した。それを見ながら、壁に穴を開けてでも電源を作ろうか、と息巻いたが、図面を読んでいくうちに、その気持ちはぐったりと萎えた。工事するのは、当然僕だ。ちょっとばかしスリム化をはかったばかりだとは言え、この腕あるいはこの身体を捻じ込めるだけの穴を作らないと、電源を取ることはできない。穴を作るのは簡単だけど、再び埋めるのは難しそうだ。

そうだ、シーリング・ライトそのものがあるじゃないか。ここから電源を取ることはできないもんだろうか。

僕は天井にがっちりとネジ止めされてあるライトに、スプリングの力で嵌め込ませてあるカバーを、そっと両手で外してみた。それから内部の構造を見上げながら、なんとなく考えた。定格をクリアしさえすれば、ここから電気を取り出しても問題ないのではないかという気がしてきた。

僕が勝手に「TB2」と呼んでいるトヨタ・ハイエース・ヴァンのセミ・バケットシートに、僕の尻を押し込んだ。キーをオンにして、グロー・ランプが消えるのを待つ。そしてセルフ・スタータを回す。クラッチペダルを踏み込んでから、レバーを操作してギアをローにする。それから両手でステアリング・ウィールを握った。僕は近所のDIYショップに出かけるのだ。

平日の昼間だというのに、マーシディーズやらベーエムベーがやたらと闊歩している。それが僕の住んでいる町の大きな特徴といえばそれまでのことかも知れない。一部例外はあるが、次期会社社長だとか創立者の孫だとかが、遊んで暮らしているようにさえ見える。もちろん僕には、なんの関係もないことである。たった今、ぼくのTB2の前に信号無視で割り込んできたばかりの、おばちゃんがドライブしているAシリーズを除いてだけど。

やがて着いたDIYショップでは、まず障子紙と電源を取り出すためのアダプタを買った。ついでに30cmくらいの幅になっている蛍光灯キット、そして裸電球のソケットも買った。その他もろもろの物も調達したので、僕は本当に久しぶりに5千円を越す買い物をしてしまった。

物理的な時間というものは、誰にでも平等だ。もう薄暗くなりはじめていた。僕は干しっぱなしの布団を取り込むため、TB2を急がせた。

翌日。

僕は予定通りの行動を始めた。まず障子戸をバスルームに運び入れて壁に立てかけた。昨晩のうちに娘といっしょに障子破りごっこは済ませてあるので、名残りを惜しむこともなくシャワーでお湯を浴びせかけていく。面白いように紙が桟から剥がれはじめた。エンジンのガスケットもこのくらいきっぱりとはがれてくれたらいいのに。紙がすっかりと無くなったところで、ついでに普段はあまり掃除をすることもない桟を、亀の子タワシで洗った。

「この時点で、いきなり紙を貼ってはだめ。」妻がそう言っていた。ちょっと乾いたところで、まだ残留している糊を落としておかないことには、仕上がりが悪くなるし、作業もやりづらいらしい。

僕はキチンに行った。電線を圧着端子でカシめることから最初の待ち時間を潰す作業にあてることにした。いくつかの線の長さを決めて切断する。その両端のビニル被覆を剥がして銅線を撚る。撚ったところを半分から折り返して端子を被せて、圧着プライヤで締めつけていく。

バスルームに戻って、今度の作業は糊を掻き落とすことに代わった。それから玄関先に敷き詰めた新聞紙の上に枠だけの戸を置いて、刷毛で糊を付けていく。注意深く位置を決めたあとで、筒状に巻かれてある障子紙を枠のうえで転がしながら伸ばしていくと、ひとまず紙は固定されることになる。紙の余分がはみ出ているところをカミソリの歯で切り取れば、張り替えのための第一次作業が完了する。

僕は一気に4枚分をやっつけた。とは言っても、かなり難渋したのは確かだ。たいへんな作業だなと思ったのは、余分の紙を切り取る作業。カッターナイフで切ろうとすると、生乾きの糊がついた紙は刃から逃げていって、ひどいときには紙を切るのではなく引き千切るような格好になるのだ。かつてW3のシートを裁断しようとしたときと同じ持ちかたでカミソリの刃を持って、なんとか作業を切り抜けた。

糊が乾いて、紙が桟に固定するのを待つ間、再びキチンのシーリング・ライトの真下に僕は立った。カバーを外したところで、万一の不測の事態を想定して、キチンのブレーカーをシャットダウンした。漏電火災を起したら何にもならない。そして僕は、シーリング・ライトの電源取り込み部分にアダプタを割り込ませた。新しく増えたコンセントに、ポータブル・ラジオのプラグを差し込んでから、ブレーカーをオンにした。耳触りの良いおっとりとした関西弁のプログラムが聞こえてきた。

ノープロブレム。

定格の範囲内なのだから、あたりまえといえばあまりにも当然のことだけど、これで懸案事項のひとつがすっかり片付くのかな、と思ったらずいぶん満足な気持ちになった。それから食器棚とシンクとの空間を照らす蛍光灯と、収納庫の内部に取り付けた裸電球を、続けてセットした。あとは増設したばかりの電線に施す「目隠し」を、どんなふうにするか考えないといけないが、ひとまず保留することにした。僕と妻との考え方の違いで揉める原因になってもいけない。

障子紙は、すっかり桟に貼り付いていた。僕は扉を再び、バスルームへと運んだ。4枚が重なり合わないように丁寧に並べて、霧吹きを使ってぜんたいを濡らす。かつては洗剤が入っていて、それをミスト状に噴射させる容器だったものに、ただの水を入れただけの代用霧吹きだったが、これで十分その役目を果たしているようだ。今度の乾燥は、ずいぶん時間が必要だろう、そう思った僕は、バスルームの窓をぜんぶ枠から外して、外気を取り込むことにした。

まだ今日は、時間がある。食器棚の背面、布張りの壁を改修することにしよう。なにかのせいで布から落ちてしまった画鋲を踏みつけてしまったことのある僕は、止めてある鋲をぜんぶ取り外した。

食器棚の裏側全面をぴったりと覆うサイズに3mmのベニア板を切って、木ネジで固定した。その上からオフ・ホワイトの壁紙を貼った。最後の仕上げとして、ちょうどキチンの壁と同じ見かけになるように、床に近い場所にはチーク材の化粧板を、ボンドで付けた。

わざわざ仕切って狭くしたダイニングテーブル周りが、再び広くなったような錯覚を覚えた。そして完全に乾いて、新しい紙がぴんと張っている障子戸を、僕は寝室に運んだ。元通りに敷居に組んだら、部屋がものすごく明るくなったような気がした。

もう夕方になっていた。保育園にいる娘を迎えに行ってから晩御飯の支度をすることにする。お迎えは、あと何回できるのかな、そんなことを考えると、少し感傷的になったりもするが、そこはそれ。脱素浪人に向けて、身辺を整えることのほうが僕にとっては重要だし、送迎する機会があるだけ幸せなことだ、と思うことにしている。主夫としての家事を開始したとたん、僕は手元が明るくて作業がやりやすいことに驚いた。もっと早くやっておけば良かった、ということには、いつでも後で気付かされるものだ。

その次に訪れた妻の休日。妻も僕も両手にはゴム手袋をセットして、朝早くから二人がかりでレンジフードを分解していた。 こんな機会を持つことができるのも、次がいつになるかは見当がつかないので、今回は徹底的にやろう、と二人で相談して決めていた。

おびただしい汚れだった。時折、妻が手の届く範囲についてメンテナンスしていたことは知っていた。それを証明するように、分解しないと手が入らない範囲については、まるできっぱりと線を引いたように、油汚れのフォッサ・マグナが形成されている。取り外されたばかりのフードの汚れに対して妻が戦闘を開始した。床に敷き詰めた古新聞の上で、ナイロン製のタワシを使って汚れを掻き落としている。僕はファンの掃除を始めることにした。

妻はこれまでに何度も、モーターの軸と羽根を固定している袋ナットを取り外そうと試みたらしい。べっとりと付着した油とホコリのせいで、羽根とナットの境界が彼女には区別できなかったみたいで、彼女としては、この羽根はモーター軸に直接ねじ止めされてあるものだ、と思い込んでいたようである。

「そんな筈は無い。」僕はバイスプライヤとウォータポンププライヤで、おそらくここではないかという場所を掴まえて、それぞれをひねった。まるで、ハーシーズのヌガーバーを噛みちぎろうとするときのような感覚とともに、ナットは緩んだ。続けて今度は、羽根を軸から抜きたい。が、こっちもヌガーが抵抗になっていて、そう簡単には抜けてくれそうにない。僕は爪が3方向についているギア・プーラを持ち出してきた。羽根は樹脂製ではなくて、アルミニュームで作られているから、少々無理をしてもクラックが入ったりすることもないだろうと僕は思った。

この先は、さすがに換気扇のモーターをバラしたり、スイッチ部を半田溶助したいとまでは思わなかったが、屋外のダクトも含めて台所の換気に関する器具のすべてが部品単位になった。

引き続いて二人がかりで、クリーナ液をぜんたいに塗りつけていった。汚れのひどい箇所は、洗剤をウエスに浸したもので湿布した。それから徹底的に汚れをヘラで掻き落としたりする作業に明け暮れた。しかし思いのほかに、地道で面倒で時間がかかる作業となってしまった。ただこの労力を惜しんでいるようでは、もちろん立派な換気扇クレージーズには、なれっこない。

この日の作業では、キチンの、特にレンジフードとガスオーブンがビルトインされてあるコンロまでが、ぴかぴかになった。やればできたじゃないか、と僕と妻はお互いの健闘を称えあった。もちろんすぐにまた汚れてしまうことはわかっている。アルミのプロペラに虫の死骸が見つからない、なんてことはありえないのだから。

その夜のメニューは焼き鳥にした。買ってきた肉に櫛打ちをして、備長炭で炙るのだ。ガスコンロの上に長方形の七輪を置き、前に使ったときの消し炭を並べる。着火用にストックしてある燃料、焦げて使い物にならない竹櫛とお隣の庭から落ちてくるマツボックリを一掴み放り込んで、火を着ける。

換気扇のファンは全速で回転している。ファンの汚れを少しでも抑えるために、不織布製のフィルタが取り付けている。もちろん新品に今日取り替えたばかりだ。松のヤニに炎が移り、それが消し炭に移ろうとするとき、黒い煤を含んだ煙が立ち登ったが、換気扇は煙をしっかりと吸い込んで戸外に排出してくれている。

「フィルタの交換時期です」

どうやら不織布の表面が汚れてくると、あぶりだしのように文字が浮かび上がってくる仕掛けになっているみたいだった。妻は腕を組んで首をかしげて途方に暮れている。

「イリュージョンだ、妻よ、この世の全てはイリュージョンだ、何から何まで光と影が組織されて、像を結んでいるだけなんだ、わかるかい?」

イリュージョンだ、と僕は大声で叫んだ。何ヶ月か前に中華鍋から上がる火柱のせいで、妻が交換したばかりのフィルタを、たった3日目で焼失させたときよりもずいぶん気の利いた言い訳だ、と満悦しながら、僕はビールを呑んだ。

あれは、たしか夏が終わろうとしていた時期だった。うちのトイレの小便器のパイプが、ついに詰まったらしくて、排水の流れが悪くなった。それにつれて時折悪臭が漂うようになったので、妻はホームセンターに出かけるたび、効果がありそうなケミカル剤を調達してきては、その効果を試してがっかりする、ということを繰り返していた。

ある日、妻は職場の上司から聞いた方法を試すのである!と息巻いて、印鑑持参で薬局に行った。

やがて妻は500ccの樹脂容器に入った塩酸を一瓶買って戻ってきた。聞くところによると、濃い濃度のままで多量に使ったりすると、人体に危険があるだけではなく、下水の浄化槽の中にせっかく繁殖させてある浄化用バクテリアまで死滅させてしまう恐れがあるらしい。薄めた塩酸を使ったところで、何度も流してはいけないことになる。そこいらのことを理解したうえで、妻は樹脂製のバケツの中で約100倍に希釈したものを、どぼどぼと便器内に流し込んでいた。怪しげな白い煙が立ち込めるのを見た。トイレの窓を全て開いてからドアを閉じて、わたしたち一家は半日ほど外出することにした。

やはり多少の効果はあったようで、帰宅後すぐに状況を確かめたばかりの妻は上機嫌だった。ほんの僅かながら水の流れは改善の方向に向かっているようだ。それまでだと、排水口の奥に覗いていた黄土色の頑固な汚れの層が、少し小さくなったような気がする。もうひとつの問題である悪臭の原因こそが、この汚れの層なのだと仮定することにして、僕は先っぽがアマくなっていてオートバイ整備にはもう使えなくなっているマイナスドライバをタガネのように使って、こそげ落とすことを試みることにした。

この汚れの層は、その名を尿石というらしい。なるほどその名の通りだ。非常に硬い。が全く歯が立たないわけでもないみたいだ。ここで僕は、工事現場用粉塵マスクと極薄ゴム手袋を装着した。おかげで悪臭にも手荒れにも悩まずに済む。

勢い良くごりごりと削りすすめていくと、みるみるうちに直径3センチの排水口の壷は、石片でいっぱいになってしまった。さて、ここまで掃除したなら水の流れはどのように変わったのかな?そんなことを思ったので、水洗バルブを押してみた。

軽率だった。まったく迂闊だった。粉々になった石片が、水の流れを完全に堰きとめてしまっていた。かろうじて朝顔から水があふれ出るという大惨事だけはまぬがれたが、このままではラチがあかない。僕はここで、普段はガソリンの移し変えに使っている醤油ちゅるちゅるに犠牲になってもらうことを決めた。フレキシブルになっているほうのホースは、塩酸を希釈したときに使った樹脂のバケツに差し込んだ。

やがてなんとか水のほうは朝顔から掻い出すことができた。しかし石片の粒が大きいものは、壷のなかに残っていた。多少の抵抗感はあったが、それらの石を全部、指でつまみだした。いくらゴム手袋ごしとは言え、それにその大半がかつては自分の分身だったものだとは言え、やはりあんまり気持ちの良いものではない。

ここで僕はもう一度、水洗バルブを開いた。依然として詰まり気味だった。ただ僅かながらも、さらに改善は見られたので、壷を覗くと視界に入ってくる範囲だけでもせめて尿石を除去しようと、再び塩酸希釈液で洗浄を試みることにした。

3時間後。僕は再び厠にいた。

マスクを装着していなかったので、尿石の臭いの分子が僕の鼻腔をくすぐった。つまり、猛烈にクサかった。あわててマスクをかけ、ゴム手袋をはめた。水洗バルブを開き、水の流れを確認しようとして愕然とした。

また詰まってしまっていたのだ。

あわてて醤油ちゅるちゅるを使おうとした。しかしながら数時間前の作業で吸い込んだ石片が、どうやら醤油ちゅるちゅるのバルブあたりにひっかかってしまったようで、水を掻い出すことは、もうできなかった。ポンプを握り締めるときに出る音だけが、プシュッと虚しく響く。それを聞きながら途方に暮れた僕は、代案を考えていた。

僕が今より10歳くらい若かったころに、シーカヤックに明け暮れていたことを知る人はあまりいないが、そのころに使っていた「ビルジ・ポンプ」という、乗艇中のカヌーに浸水があった場合に手動で水を掻きだすポンプを使うことにした。ずいぶん長い間使っていなかったので、いったいどこに片付けたのかすっかり忘れてしまっていたが、それはエルシノ庵のなかにある、中古インナーチューブのさながら雑木林の奥にあった。このポンプは、10回もピストンすれば5リットルが排水できて、そのついでに砂粒やら小さな貝殻程度のものだったらいっしょに排出してくれるという、格好のSSTだ。

樹脂のバケツは、乳白色の液体に満たされていった。石の細かな破片が水の中で舞っているから、そんな色に見えるのだろう。ポンプそのものは快調に動いている。バケツに溜まった水を捨てようとすると、底のほうで大量の石の破片がガラガラと音をたてていた。おそらくはU字パイプに相当する部分からも塩酸で脆弱化した尿石が、ポンプによって掻きだされたのだと思った。

そりゃ詰まっていたわけだわ・・・・

水の流れは、はっきりと改善されていた。しかし、このレベルまで掃除してしまうと、新築時の状況を記憶している僕にとっては、もはやその状態を満足できるものとして認めることはできなかった。

工具箱から、特大サイズのモンキーレンチとウォーターポンプ・プライヤ、それに束ねたワイヤの先端に真鍮タワシが付いているブラシを持ち出してきた。妻にはしばらく水道は使えないからと伝えて、僕は我が家の水道栓をオフにした。

それから10分くらいの間、僕は工具を持って格闘した。トイレの水回りを分解するのはまったく初めてのことだったが、それほど難しいことでもなかった。パッキンやナットを使う順序さえ明確にしておけば良いだけのことだ。

上水部分の分解が終わったら、今度は下水部に作業を移す。U字パイプを内蔵する一体式になっているので、床や壁に固定されているのを取り外してから横倒しにしないことには、パイプ部分のオーバーホールはできない。注意深く、取り付け構造をチェックしたところ。ボトム部分の左右にボルトを目隠ししている蓋を見つけた。どうやら壁そのものに対しては上水用のパーツでホールドさせるということなんだろう、底面部と床の間にだけ2箇所のナット締めをするようになっていた。

やがて本体を横倒しにすることに成功した。そして僕は下水パイプを観察した。この部分にも汚れの層が付着していて、100パイの口径を20パイくらいに狭めていた。試しにマイナスドライバで付着物を突いてみた。すると予想した以上に柔らかい。というよりも、これは石ではない。まるで粘土だ。

かつて我が家の来客のなかで、ただ一人だけだが、泥酔したうえ、朝顔に頭を突っ込んだまま寝てしまった若者がいた。もちろんそれが誰なのかは、一応伏せておくことにしよう。除去作業をしている最中の僕にあっては、そいつの顔と名前を思い出して、女癖と酒癖さえ悪くなければ良い奴なのになあ・・・くっそ〜やりやがったな〜 などと、ブツブツ呟いていた。

ミルク容器の紙パックをハサミで切り開いて、だいたい縦横5cmの大きさに揃えた「紙べら」を使って、できるだけ下水管には落とさないように注意しながら粘土を掘り出す。

下水管の掃除が終わったところで、今度は本体のU字パイプを底側から掃除することにした。粘土をある程度除去してから、やはりドライバやら真鍮ブラシで、石化している物体をこじり落としていく。パイプ部分が複雑に曲がりくねっているせいで作業は面倒だったが、まあ妥協してもいいかなというレベルまでホーニングした。

イースター島のモアイ像は、いったいどうやって海岸沿いに並べたのかな・・・・そんなことを想像しながら、先程まで横倒しになっていた小便器を屹立させた。下水側は、パイプに接合できるように置くだけで、後はずいぶんと遊びのある穴にセットされているボルトに対し、ナットで締め付けるだけで良い。U字パイプが外付けでないことが幸いして、木製のピストン固定SSTを使うこともなく、あっさりと朝顔は鎮座した。

今度は上水部分のセットアップだ。連結パーツの取り付けについては、輪ゴムも櫛も当然ながら使うことはなかった。ただ1箇所だけ癖のある接合部分があって、僕はバイスプライヤのご登場によって、なんとか作業を切り抜けた。ちょっとだけ苦労したが、その模様を伝える文章力が僕には無い。その作業時の写真を残していないのが残念でならない。

たぶん水漏れは発生しないだろうと決めてかかって、僕は屋外にある水道栓のバルブを再びオンにした。トイレに戻って確認すると、パッキン部から雫が落ちているのを発見したので、慌てて増し締めをすることになった。とは言え、ここまでの作業は比較的うまく運んだのではないかと本人は満足しながら、水洗バルブをオンにした。

開〜通〜!

新築時の流れ、というかごく普通に動作する水洗トイレが僕の前に再現した。もうここで誰にもゲロを吐かせない、僕はそう決めた。

こうして僕は、小便器クレージーズのメンバーになった。

作業の間ずっと、手袋をしていたけれど、なんだか爪の汚れが黄色っぽかった。いくら手を洗っても、なんだか違和感があるし、嗅覚も少し変だったので、その日の夕食は自分たちで作らずに、外で簡単に済ませることにした。感覚が元通りになったのかな、と思ったのは、その作業から2日経ったあとのことだった。


「くどい。くどすぎる。」ここまでをhtml化させてから推敲を開始した僕は、おもわず唸った。

ウチの台所のリフォームやらトイレ掃除の話をWebに掲載して、いったい僕はどうしようというのだ。だいたいこんな駄文を、いったい誰が読んでくれるというのだ。しかしこの駄文ファイルはまだまだ続く。半年以上の更新ブランクを埋める指慣らしに、恐縮ながらお付き合いいただきたいと願ったりするものである。


水周りのことが少し判ったような気がしたので、今度は混合栓水道管クレージーズに突入した。うちのバスルームには、お湯と水を適温に混合して吐出する蛇口が、2系統あるけれど、そのうちのひとつは新築時から不調だった。どちらにもサーモスタット機能がついていて、25度から50度の範囲での設定ができるはずなのに、どこに合わせていても片方は、一番熱い状態のお湯しか出なかった。

父が存命だったころに、何度も業者を呼び出して調整させたことがあるらしい。

「水圧が不足しているせいですね。ボイラーの性能に対して、蛇口の数が多すぎます。」配管工事屋も、蛇口メーカーのサービスマンも、まるで口を揃えるかのように同じことを言ったそうだ。僕の父は、その業者たちの言葉を信じることにして、本来はバスタブにお湯を注ぐために設けた蛇口のことをあきらめた。そのとき以来、シャワーをバスタブの中に突っ込んでから蓋をして、それからお湯を貯めることになった。まるでそれが当然のことのように、わが家ではそうすることになっていた。

蛇口の数が多いと言ったところで、キチンのシンクにひとつ、洗面所にひとつ、バスルームにふたつ、合計4系統でしかない。中学校の化学で習ったボイルシャルルの法則だったかドルトンの法則だったか、そこいらの詳しいことは忘れているが、いつも正常に動作する3系統があるのに、圧力のせいで不具合があるというのは、どうにも納得がいかない。

僕はバスルームのドアを開けた。目の前にある壁には、シャワーつきの混合栓がある。その横にあるバスタブの傍に、問題を抱えた混合栓がある。僕はまず、マイナスドライバでそれぞれの水流を止めることにした。それから、うちでは一番サイズのデカいモンキーレンチを使って、水道管から蛇口を切り離した。さっき止めた水流を、ふたたび開放してみたところ、むきだしのパイプからはどぼどぼと、お湯あるいは水が、それぞれ正しく吐き出されている。

「それでは、こうしたらどうなるだろう。」ある仮説が浮かんだことで、僕は調子に乗ってきた。わざとシャワー付きの蛇口をバスタブ側に取り付けた。バスタブ用だったものは、シャワー用の配管に取り付けた。そして開放。想像したとおりの結果が見えた。圧力不足のせいで、正常な動作が得られないと業者たちが言った側の配管から、きちんと制御された温度で、温かい湯が流れている。

「親父ぃ。騙されっちまったなぁ〜。」

相変わらずサーモスタットが暴走しているほうのコックを締めながら、僕はつぶやいた。数字と記憶力には強い人だったが、理科と横文字には暗かった父のことを思い出していた。これはパーツの初期不良だ。そんな明白なことを、白々しくも水圧のせいにするなんて、まったく言語道断だ。仮に圧力が本当に不足だというのなら、施工直後の動作確認のときに、サーモスタット式の混合栓ではなく湯と水の量を独立して調整する昔ながらのタイプに変更させてくれ、と提案するのが、ものの道理だろうしプロの仕事だろうが、と僕は真昼のバスルームで水浸しになりながら独り激昂していた。だいたいどこの家庭にもあるような器具が、まるで旧車乗りの世界の悪い側面と同じように扱われたことが気に入らない。父も彼岸でさぞかし悔しがっていることだろう。

いまさらその業者のところに乱入してクレームをいれようにも、本当にクレージー扱いされるだろうから、ここはぐっと堪えることにして、僕は分解清掃を試してみることにした。内部は、ある意味で分離給油式のカービュレターに似た構造だった。ちょうどガソリンをお湯に、赤オイルを水に置き換えて考えるとわかりやすい。お湯の吐出量は、アクセルつまりメインのコックの捻り加減で決まる。それに対して水をどのくらい混ぜるのかということは、設定温度に対して反応するような金属製のデバイスがピストン状スライドバルブを押し込む量で決める、そんなふうに見て取れた。バルブに刻まれた溝にはOリングが入っていたが、その周囲にスラッジが溜まっていたし、部分的に腐蝕している箇所もあった。おそらくそのせいで、バルブがスライドしなかったのではないかと思った。ピストンをピカールで磨いた。それからリングを交換した。元通りに組みなおしてみたが、おそらくサーモスタット部分に問題があるのだろう、依然として温度はほとんど制御不能だった。

僕にしては珍しく弱気になった。そのサーモスタット式混合栓の初期不良品を、いつものホームセンターに持ち込み、修理を依頼してみた。一旦は受け付けてくれたが、結局はメーカー送りということになってしまった。数日後にメーカーのサービスから電話があった。

「一度お宅にお伺いさせていただいて、水圧の調査をしてみたいのですが。」若いサービスマンの明るい声が飛びこんできた。

「それよりも、分解して中身を見ていただけましたか?」僕がそう尋ねると、彼はまだです、と答えた。

「うちに来るということは、出張修理費用がそれだけでも発生しますよね。」

「ええ。5千円お申し受けさせてもらっております。」

やっぱりか。きみたちみんなでグルになって、父と僕をまたそれ以上に愚弄するというのだな。

「もういいです。その混合栓ですが、そちらで処分してくださいますかね。」そう言って、僕は電話を置いた。同じ機能の新品が、一万円も払えば手に入ることを知っていたし、自分で取り付けることだって難しいことではないのを知っていたから。

しかし今は、その一万円を支払う余力が無いのが悔しい。プライオリティはこれが一番ではないから、余裕ができてからいずれ修繕することにした。そういえば、うちのバスルームに据えてあるホウロウびきの風呂桶にはなぜかクラックが入っているので、いずれ交換しないといけなかったんだよな、ということを思い出した。同じサイズの桶を買ってきて自分で入れ替えることができるのか興味深いが、とにかく稼がないことには、そのうち家で風呂にも入れないことになる。

こうして、混合栓クレージーズと風呂桶クレージーズの案件は先送りになった。問題点が明確になっただけでも気分的にはずいぶんすっきりした。ぜんぜん関係ないが、風呂桶のほうを、バスタブ・クレージーズと表現すると、なんだかトライアンフみたいでカッコいい。

冬が近づいている。岡山の海岸線沿いの街にあって、その寒さなんて、たかだか知れているかも知れないが、暖房器具の無い生活というのは、やはり考えられない。近頃は、娘の聞き分けもずいぶんと良くなってきたから、今年は久しぶりに石油ストーブを使ってみることにしようと思った。彼女が生まれてからこっちは、石油ファンヒータに事故防止用の柵を取り付けたもので暖を取っていたものだが、いかんせんスペースを取りすぎるし、電気と灯油の両方を消費するという点で、僕はあまりファンヒータなるものが好きではなかった。もはや娘が石油ストーブでヤケドを負う確率は、僕や妻の確率と同じ程度だろうし、ファンヒータでは煮炊きができない。僕は思い立つがまま、エルシノ庵から対流式石油ストーブを持ち出してきた。

たぶん6年ぶりに明るいところに出てきたストーブだった。約3リットルの燃料が入るタンクは、古い灯油で満タンだった。仕舞ったときに何を思ってフルタンクのままにしておいたのか、今ではそのときの精神状態を思い出すことができないが、そのことをひとしきり反省しながら、醤油ちゅるちゅるで、オートバイ用洗浄油を溜めてあるポリ容器に移し替えた。古い灯油では、ストーブはうまく動作しないことを、僕は知っている。

すっかり空っぽになったところで、今年買ったばかりの灯油をタンクに注ぐ。ニクロム線に3Vを架けて着火させる仕組みは、交換したばかりの新品電池のおかげで、きちんと動作を再開していた。しかし、肝心の芯の具合が良くない。ツマミをいっぱいに回して最大に芯を出している状態のはずなのに、口金部分より上に先が出てきていなかったのだ。これではいくら新品の燃料を使っても火は着かない。そこで、ZIPPOをメンテナンスするときの理屈を当てはめてみることにする。芯を引っ張り出す、あるいは芯そのものを交換すれば良いのではないか、と思った。まずは替え芯が入手できるかどうか確認してみたい。

近所の大型ホームセンターのサービスカウンタで、ストーブのメーカーと機番を伝えた。

「メーカーのほうに問い合わせてみますので、ご自宅のほうに連絡を差し上げます。」

僕は、「〜のほう」という言い回しが嫌いだ。それは丁寧な言葉使いなのだと言うのだろうか、なんとも耳障りだ。

その日の夕方頃に電話で連絡があった。

「本日お問合せのストーブの替芯のほうですが、ずいぶん以前の機種のようでして、メーカーのほうでも廃番扱いになっている模様です。あいにくですが、ご容赦願いたいと存じます。当店といたしましては、新しいストーブのほうをお勧めしたいの・・・・・。」

ええい。なんとか自力で直してくれるわ!!

僕が学生のころに買ったストーブだから、製造後15年以上経っている。6年経ったら補修部品が無くなっても文句は言えないこともわかっていた。やっぱり「ほう」言葉に我慢できなくてキレちゃったのかなあ、と作文しながら回想している僕だったりなんかしちゃったりしている。

翌日。妻が出勤した後、僕は娘を保育園に連れて行った。

作業用防塵マスクとゴム手袋、それに多少の工具を準備して、ついに僕は石油ストーブ「TOYOTOMI RB-2」に立ち向かうことにしたのだ。もちろんSM-3のような懇切丁寧なサービスマニュアルなんてあるわけがないから、不安はいっぱいだった。しかしダメで元々じゃい、という気持ちでサクサクと分解を進めた。耐熱ガラスを金属の棒でガードしているアタマの部分をバラし、各種安全装置を取り外すと、そこにあったメカはまるで、アルコールランプそのものだった。コーヒーサイフォンに使うような芯の出し入れができるアルコールランプと同じ構造だった。

芯を上下させるためのベベル式のようなメカを取り外すと、筒状の綿網がどっぷりと灯油の壷に浸かっているだけのシンプルなものだった。僕はその筒状の芯を引き抜いてみた。当初想像していたよりも壷の中に隠れている部分は長いようで、ずるずるとその姿をあらわにした。

その芯は、鉄製の筒の内側に固定されていた。金属の筒に刻まれた溝がベベル風に動かされて、芯が上下する仕組みである。僕は、金属の筒から生えているいくつもの鉤状の爪を、マイナスドライバの先で起した。いったん外してから今度は2センチほどずらしてやって、再び爪を埋め込んでみた。これで理屈の上では芯の先が、安全装置よりも上に出てくるはずだ。

それから僕は、何度もの空焚きをくらったせいで真っ黒になり、そして別の物質に変化しながらいびつな形になっている芯先を、ハサミで刈り揃えた。綿糸を撚り合わせてから筒状に編んである芯のコシは柔らかい。それが安全装置の中でよじれずに上下できるよう、薄いテープが補強用の芯材として貼り付けられてあったが、芯先を刈り揃えたとき、ほとんどそのテープ部分も切除されてしまうことになった。補強用のテープの材質については、今後不都合があったなら検討することにして、ひとまずは組み立てを開始することにする。とはいっても別に大したこともなく、あっさりした作業だ。ただ逆の手順を追うだけだった。

ガラス製のアタマ部分を取り付ける前の、大型アルコールランプみたいな状態まで復元させたとき、着火テストをやってみた。当然、ひょうしぬけするくらいあっさりと、石油ストーブRB-2は数年ぶりに灯った。感慨にふける間もなく、僕はストーブを蹴った。安全装置の確認をするためだ。ただ5回のうち3回は、うまく消化できないことがわかった。どうやら芯が上下するときにできるヨジレのせいで、消化用の筒が跳ねあげられる途中で止まってしまうようだ。

まあいいかぁ。芯の補強対策ができようができまいが、完全に自己責任の作業だし。

ガラスのホヤ部分を含むアタマ回りは、特に分解しないつもりだったので、物干し兼件ダブワンガレージに持っていって、エアブローすることにした。隙間に入り込んでいるものはできるだけ吹っ飛ばさないと、ホコリやら髪の毛が燃えたときの悪臭は、ものすごいものがある、のです。

しかし予測は付いていたことだとは言え、やはり補強芯を張っていない燃焼芯にはコシがなくて、どこかに引っかかりながら動いている感触がある。ノブを回したときにスッと昇降してくれないことがあるのには片目をつぶることにして、とりあえず石油ストーブの暫定レストレーションを終えることにしたい。

ひとまず再稼動を始めたばかりの、この僕のポンコツ対流式ストーブの火力というか性能は、なかなか大したもんだな、と思った。あっという間にお湯が沸くし、部屋の中は暖色の灯りで満たされる。スイス空軍が使う独特のナイフでシチューとスパゲティの缶を開けた。そして、ストーブに缶ごとかける。

そうだ、今度は豆を煮てみよう。肉の匂いが鼻に届き喉の奥が湿ってきて、頭は快い疲労で満ちている最高のひととき、僕はそんなことを思っていた。 ニッポンの石油ストーブ料理の代表として、僕は豆料理を押したい。圧力鍋を使って短時間に煮ようとしたら、豆の皮が破裂したり潰れてしまったりすることが多いが、じゃあ今度は皮を潰さないようにしようということで加熱時間を短くしたら、ちゃんと煮えてなくてがっかりすることもある。なんといってもあの圧力鍋の短所は、火の通り加減について鍋蓋を開けてこまめにチェックすることができないことだろう。その点、灯油ストーブ料理だと、冬場に限定されることにはなるが、部屋を暖めるついでに、豆をふっくらツヤツヤに料理することができる。

ブラボー!

その日から数日間というもの、僕は虎豆やらインゲン豆、小豆にウズラ豆、いろんな豆を炊いて遊んだ。いずれは、しっくいで作った、大鋸屑と腐った澱粉糊を混ぜたものをラードで焼いたような味がする鍋焼きパンだって作ることができるだろう。僕は、石油ストーブクレージーズである。これから訪れる冬が、少しだけ楽しみになってきた。

12月になった。そして第3週目から僕は、再び働き始めることが決まった。あと二週間。それにしても今月は、イヴェントが多い月だ。保育園では発表会。それにクリスマス会に誕生会。今月で僕たちの娘も6歳になる。その誕生日には、学習机が届くことになっているが、そのスペースも確保しないといけない。もしかしたら、かつての会社で働いているときよりも忙しいかも知れないが、理不尽さが微塵もないからさほど苦しいとは思わなかった。

保育園でも年長組ともなると、学芸発表会ではずいぶん出番が多い様子で、いろんなことを発表するらしい。そしてピアニカで合奏するのだ、と娘は言う。バカ親の僕は、それがどんな芸なのかちょっと気になった。

僕が学生だったころのレゲエ界には、DUBの嵐が吹いていた。それはレゲエのカラオケに乗せたDJみたいなもんだと思っていただければよい。そのパトワ語トゥーツについて、もしも僕がある程度のヒアリングができたなら、もっと違った印象があったかもしれないだろうが、そりゃいくらなんでも無理だった。DJの代わりに、カラオケを楽器演奏を被せたDUBミュージシャンもいた。個人的に好きだったのが、オーガスタ・パブロ〜ピアニカ奏者である。この人のフレーズは、まるでビバップ全盛期のチャーリー・パーカーのごとく、レゲエの枠を越えてニッポンのクラブシーンなどに大きく影響を残している。そしてちなみに、わが家にも影響を残している。

ピアニカはコンパクトだし、当然電気も使わない。それに水没しても壊れない鍵盤楽器だから、若い頃によくやったラリパッパ的な野外活動では、ウクレレやらカズーなんかとともに、非常に重宝した。燃え盛る焚き火を前にして、でたらめなセッション、いんちきくさい伴奏・・・・・あとは土管が3本くらいあるならば、最高のリサイタルとなった。ボエ〜♪ 

僕はエルシノ庵に叩き込んである野営セットの奥深くから、ピアニカを発掘してきた。最後に使ったのが結婚するちょっと前だったような気がするから、だいたい7年くらい忘れ去られていたことになる。。やはり長い時間のせいでぜんたいに薄汚れていたし、そのまま使うのは不衛生だから、その日の晩御飯の買い物に出かける直前に、シンクにお湯を貯めて、そのなかに沈めることにした。

スーパーから戻ると、乾いたウエスで鍵盤を磨いてから、コンプレッサを使ってエアブローしてみた。それから娘のお迎えということで保育園に向かった。

保育園の発表会に選ばれる楽曲は、やはり多少は時事性を反映するものらしい。

♪今は、もう動かない〜 おじい〜さ〜ん〜♪ というフレーズで有名な「おじいさんの古時計」を演奏するのだそうだ。

そこまでの情報を聞き出したところで、僕は娘に、掃除したばかりのピアニカを渡した。

どうしてそんなものが自分の家に存在しているのか考える様子もなく、娘はマウスピースを口にくわえた。そして、音を探し始めた。おそろしいことに、この楽曲をAmのキーで演奏すると、一度だけ黒鍵を使う必要がある。

そして、その箇所で必ずと言っていいほど娘はつっかえたり、別の音を鳴らしてくれたりする。

目隠しをされたうえで、身動きできないように拘束した状態の人間がいるとしよう。その人に、ヘッドフォーンで心臓の鼓動にあわせたパルスの音を聞かせる。何時間も、またあるいは何日間もずっとその状態に置いておき、突如その音を止める。すると、その人の心臓の鼓動もシンクロして停止する・・・そんな拷問のやりかたについて聞いた記憶が蘇る。実際に試したことがあるわけではないから、その真偽はもちろん定かではない。

僕が住んでいるブロックには老夫婦の世帯が多いが、ちょうど我が家以外には未就学児童も小学生もいないこともあって、ご近所のみなさんはウチの娘をひじょうにかわいがってくれている。お世話になっているご近所を実験台にしてはいけないし、もちろん生物兵器を拡散することがあってはならない。午後6時半を過ぎたら「ピアニカ禁止条例」を適用せざるを得ないな、と苦笑いしながら、あいかわらず主夫の僕はその日の妻の帰宅を待った。

昨年のサンタクロースは、広島のパルコにテナントとして入っている島村楽器で、折りたたみ式の木琴を調達した。あのときは、どうしても岡山県内の楽器店ではそれを見つけることができなかったし、取り寄せてもらうとしてもクリスマスには間に合わなかった。そういえば、あの木琴も生物兵器だったんだよなあ、そんなことを思い出しながら、僕と妻の二人は、今年のサンタクロースをどうしようかと頭を抱えながら倉敷市の郊外にある大きなショッピング・モールにいた。不景気なんてどこ吹く風か、と僕は思った。じいちゃんばあちゃんが孫の手を引きながら玩具売り場で札びらを切っている。若いファミリーたちも、ショッピングカートいっぱいに毒々しいパッケージを盛り上げながら闊歩している。もしかしたら、ボーナスが出て最初の日曜日なのかも知れない。

僕は仏教徒だから、別にクリスマスを祝うこともないわけだけど、娘にファンタジーを与えるのも悪いことではない。僧侶をしている友人が副園長をしている保育園にも、サンタクロースはやってくるらしい。イヴェントが催され、その夜になると彼の家では、やはりターキーを食べるのだと、彼は言った。彼は笑っていた。だから僕の家でも、食事の前にお祈りすることがあろうがなかろうが、形ばかりながらサンタクロースはやってくる。どうやら今年は特に、プアーらしいが。

僕たちには、娘が欲しがる玩具を買い与える習慣がほとんどない。それに、販売価格のほとんどがロイヤリティを占めるような類いの有名なキャラクター商品は、まず買わないことにしているので、こうした大型のおもちゃ屋でいくら考えたところで選択肢はたいして広がっていることにはならない。

妻は、おもちゃ屋でさんざん悩んだあげくに、出ましょう、と言った。結局は、そのショッピング・モールの2階にある楽器屋で、ウクレレにするか三線にするかスモールスケールのギターにするか、というところまで候補を絞ったが、教えるのが面倒だ、という理由で没になった。可愛らしい素焼きのオカリナの前でも立ち止まったけれど、ソプラノリコーダーを学校でいずれ習うときに却ってややこしくなるかも知れない。そんなことを考え始めると、きりが無い。シンプルだけどいろいろ楽しめるものを選ぶというのは難しいもんだな、とあらためて思った。

娘の発表会の日がやってきた。彼女なりに世間に揉まれたり主張したり、納得したりしながら、協調して成長しているみたいだ。ありがたいことだ。みんなで合奏の出番でも、特にトラブルは起きなかった。動けなくなった年寄りがひとりとして出ることもなく、無事に発表会のプログラムはぜんぶ終わった。

今度は娘の机を置く部屋を準備しないといけない。その部屋は2階にあって、つい最近までPC室とダブワン部品格納庫を兼ねていた。つまり僕の占有スペースだった場所で、スポークをリムに組んだり、ガスケットを制作したり、Webネタを書いたりしていた部屋だ。

中古Macとか中古液晶プロジェクタを手に入れた頃から、僕の生活のスペースが1階の玄関脇にある部屋に替わった。自動的に2階の部屋は、物置と化してしまっていたが、今日はとにかく、これをなんとかしないといけない。不要なものは後ろ髪を引かれる思いで、捨てることにしたし、まだ必要だと思われるものは、エルシノ庵の2階に移動させた。エルシノ庵もまた人外魔境になりつつあった。僕の街では粗大ゴミの回収が有償になっているが、処理場に持参するならば回収するより安く引き取ってもらえることになっている。

この半月くらいの間、もう持っていてもしかたのないものばかりをTB2のカーゴルームに満載して、市の清掃局に何度も何度も往復している。通いつめるうちに、担当の人たちと多少の人間関係ができる。

廃油はウエスに浸して袋に詰めれば、燃えるゴミ扱いだ、と教えてもらったので、1斗缶に3本分を一気に捨てた。処分に困っていた古タイヤについても、処分を請け負ってくれる業者さんを紹介してもらった。

これで僕の家は、おそらくこの5年間で、いちばんゴミが少ない状態になっているはずだ。ただそれは、掃除が行き届いているという意味ではないし、片付いているということでもない。ここからが正念場だ。

100円均一ショップで、半透明な樹脂製の容器を買ってきた。さまざまなサイズを混ぜて、20個くらい準備したところ、オートバイの部品を中身が見えるようにして仕舞うのに、ちょうどいい。中古のピストンやカービュレターを、それぞれペアにセット組みしたり、スパーク・アドバンサとポイントを一緒にして入れたりしているうちに、準備した容器のほとんどを使い切ってしまった。そうして整理したパーツをぜんぶエルシノ庵に移動させてしまうと、がらんとした空間ができあがった。

壁や床は、クリーナで洗った。フローリングの床に付いた傷は、専用の補修剤をヘア・ドライヤで温めて埋め、最後にワックスがけを2度に分けて仕上げた。あとは来週の終わりごろ、娘の誕生日にあわせて届く手配になっている机が来るのを待つだけだ。やっと父親らしいことをしてやれた。この一年を振り返りながら、僕は翌日の初出勤の支度を始めた。

慌しい日々が、再び始まった。

その最初の週の金曜日、家に戻ると机が納品されていた。娘は6歳になった、ということだ。続けて3連休。ニッポンはクリスマス・イブの前日が祝日なのである。今年はそれが月曜日だったから、たった5日働いたばかりなのに、いきなり3日間も休日になってしまった。ウィーク・デイに、ゆっくりと料理することができなくなった僕は、明日の分を前日に振り替えることにしようね、と娘に言い聞かせて、その祝日の夕方ごろには、僕は娘と二人して、石油ストーブと無水鍋でローストチキンを作ることができるだろうか、という課題にチャレンジしていた。その傍らにいる妻は、ガス・オーブンの中にあるケーキの焼け具合を覗きこみながら言った。

「サンタクロースは今晩じゃなくって、明日の夜に来るの。あさっての朝、起きたらプレゼントがあるの。アイちゃんは、何をお願いするの?」

「ん〜。あやとりの毛糸が欲しいなあ。」

安〜い。そんなんで良かったんかー。

妻はオーブンの前で、僕はストーブの横で、それぞれずっこけた。どうしたわけか、木綿のハンカチーフのフレーズが僕の頭に浮かんできた。鼻歌が出てくるってことは、僕の気分もずいぶん晴れ間が出始めたということでもある。

クリスマスの朝、娘の枕もとには、ボディが樹脂でつくられてある普通のハーモニカがあった。

これでもじゅうぶん安価だった。本当は、ホーナー社のものにしたかったが、店にはクロマチック系かハープ系しか取り扱っていなかったので、しかたなくこれを選ぶことにしたんだったなあ、と娘のでたらめな演奏で眠りから叩き起こされたばかりの僕は、のろのろと布団から這い出た。

30日には朝から薪を焚いた。毎年のように餅をついて、雑煮用の餡入り豆餅を作った。

その夜は、同級生たちが集まる恒例の忘年会が、韓国家庭料理を出すお店で催された。日割り計算で、ちょうど一週間分の給料を受け取ったばかりの僕は、その日の会費を自力で捻出して参加できたことに、ひとしおの感慨を覚えていた。

「この年齢とキャリアで、その職種に就けたことは、このご時世では奇跡に近い。」

友人のなかではもっとも強弁家の彼が言った。そのときの僕の脳裏には、秋ごろに連続して不採用通知を僕に送ってきたいくつかの会社で受けた入社試験問題が、フラッシュバックしていた。

それは、眞露(ジンロ)で少し酔ったせいなのかもしれない。もしかしたら、俺はもうダメなのか、と精神的に不安な日々を送った10月のことを考えると、彼の言う「奇跡」というのがぴったりと重なりあう。そして、その彼や“しんえもんさん”たちと呑んでいるうちに、僕のまわりには眞露の空き瓶が、ずらりと並び始めた。というそのあたりのところまでは憶えている。

僕は、フル・オートマチック。ノー・コントロール。アルコール・クレージーズ。膝まで、どころか腰まで抜けて、完全に壊れていたらしい。おそらくそのレベルは「西中島南方の夜」級だったのではないか、とあとで妻は推定した。酔っているときに、どこかにしたたかぶつけたのか、左眼あたりが痛い。シャツにはタバコで穴が開いていた。宿酔いは、バスタブと混合栓の件といっしょに、2003年まで持ち越されることになったし、張り替えて間もない寝室の障子も、おそらく僕の突進のせいで破れてしまっていた。

Want you 俺の肩を抱きしめてくれ 
生き急いだ男の 夢を憐れんで
Want you 焦らずに知り合いたいね 
マッチひとつ摺って 顔を見せてくれ
人生はゲーム
誰も自分を 愛しているだけの 悲しいゲームさ
Want you 弱いところを見せちまったね
強いジンのせいさ おまえが欲しい

人生はゲーム
互いの傷を 慰め合えれば 答えはいらない
Want you
I want you 俺の肩を抱きしめてくれ
理由なんかないさ おまえが欲しい


スローなブギにしてくれ / 南佳孝

素浪な武士にしてくれ / 離職しました 完

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