
とにかくわたしは円満に、そして明るく退職してきました。
残念がってくれたり、わたしの今後を心配してくれた後輩たちには、
「諸君の将来のほうがよっぽど俺には心配だよっ!」
そんなかんじで激を飛ばしておきました。
上層部のある方から届いた社内メールには、「君ら30代の社員が次々と去っていくのは、企業として魅力が無いってことなんだよな。済まない。」というものもありました。それを拝見したとき、もしもこの人が経営の中枢にいたなら、わたしは退職することを選ばなかったでしょう、というこれまでのお礼も込めた返信をさせていただいたりもしました。
中小零細企業のほとんどが同族で経営されていることは、まず常識だと思います。そんななかで、例えば(あくまでも例えば)、次の社長に就任する方は、たぶんその人がこの世に生を受けた時点で、だいたい決まっている場合が多いことも、そのご本人が選ぶ選ばずには関わらず、やはり常識だと思います。
世の中が市場が業界が、右肩上がりあるいは横バイの時代だったならば、またいつの日にか景気が回復したとき、業績が向上するような要因を持っているような企業だったならそんなに悲しくもないでしょうが、わたしの目から見た場合、なんだかその悲しみに耐えることが、ついにできなくなってしまう日が訪れてしまったんです。
やたらと改革だのミッションだのというスローガンが掲げられるようになってきました。身内や縁者、そして傀儡の匂いがする仲良し倶楽部のメンバーたちにはには決して押し寄せることがないカルロスゴーンごっこが、痛くてたまらなくなったんです。それにも増して上司たちが繰り返す、保身のための朝令暮改には、吐き気を感じるようになってきたのです。
ややこしい話については、具体的に書くわけにもいきません。わたしが何の業界でメシを食っていたのかは、あえて書きませんが、とにかく、この人たちに俺の人生を押さえつけられたままで、一生を過ごすのはもはや勘弁ならぬ、という感情を強く抱くようになっていました。
ああ、このまま奥歯を噛み締めながら勤めたところで、あと何年かでリストラをくらうか、会社が存在しなくなるか、そのどっちかになるんだろうなあ、と考えたわたしは、ここでハラをくくることにしました。そして手始めに、知る限りの正規の手順を追って、白い封筒に黒いボールペンで三行半を書き付けることから、足抜けの手続きを開始することにしました。
そうですねえ。あともう何日か、あの職場に居続けたところを想像すると、もしかしたら経営陣に面と向かって「おまえはバカだ」なんていう発言をしたかも知れないなあ、と思います。もしもそんなことがあったなら、あわやクビは免れなかったかもしれません。侮辱のカドで懲戒免職と思いきや、企業秘密漏洩が罪状となったかも知れません。
やはり退職金欲しさでジブンを殺すことができる我慢は、やっぱり1ヶ月が限度だったと、振り返って考えるときにそう思います。せいぜいNAの軽四輪乗用車が新車で乗り出すことのできる価格にようやく届く程度のお金が支給されることになっていたようですが、これからもまだしばらく続くわたしの人生を考えたら、貰うことについては無いよりはマシと思って、耐えることにしました。
30日を過ぎたあたりで、ついにアタマが痛くなったりハラが痛くなったりしはじめてきました。しかし有給の消化をしまくることを極力嫌って、出勤は続けました。経営陣をはじめする大半の上司たちに対しての恨みはあっても、同僚たちにはできるだけ迷惑を掛けたくありません。なんとか頑張ろうとジブンに言い聞かせながら出勤を続けました。
40日を過ぎたあたりで、白髪がさらに増えていることに気付きました。50日を過ぎるころには吐き気を押さえるのが精一杯となっていましたが、やがてついにその日がやってきました。
3月30日
就業ベルが鳴る時刻の、ちょうど一時間まえくらいでした。2年ほど前にわたしが作ったデータベースのインターフェイスを少し改修してくれ、という依頼が課長さんからやってきました。この人にもお世話になったし、恩を感じていましたから、とくに逆らうこともなく作業を始めて、それから2時間くらい後には、連結テストを終えました。
「じゃあ帰りますね。」
ここの職場の伝統ですが、寿退社以外で円満退職する人は、その最後の日の終礼で挨拶をして花束を受け取った後で残業する人がほとんどだったようです。わたしも、その妙な伝統を受け継いだ満足感から「これで完璧なのよ」と安堵しながら、何人かの後輩たちに、本当に最後の挨拶をしてから、職場を後にしました。
2002年3月31日付の退職扱いでしたから、日曜日にあたる翌日が終わるまでの間は、わたしの身分は会社員なのですが、一応組織から開放されました。
ついに無職となることができました。
アイ シャルビィ リリ〜スト♪
自宅に戻ると、週休二日制を採用している某大企業の契約社員であるところのウチの妻が、わたしの帰りを待っていました。
今年の桜は、例年より10日以上も開花が早かったので、今宵は妻の実家で花見をするということが急遽決定されていた様子でした。娘は既におばあちゃんの家で、花見の準備のお手伝いというか各種の妨害工作のため派遣されていたらしく、妻ひとりがわたしを出迎えました。
すぐに妻とわたしは、三人分のお泊りセットを用意して、妻の実家へ向かいましたが、妻がステアリングウイールを握っているその10分間、お義母さんにわたしの今の心のありどころを何と説明しようかぼんやり考えていたことは言うまでもありません。
わたしが格子戸を開けようとすると、ジムニーのエキゾーストノートで我々の到着に気づいた娘が、三和土で待ってくれているのに気付きました。
「ただいまアイちゃん。ボク無職になったよ」
むしょく〜くん〜♪
全員がそろったところで、近所の公園に移動しました。お義母さんから「おつかれさん」と、いままでの労をねぎらってもらったことは、本当に幸いでした。
2002年のプロ野球が開幕した夜のことでした。
それから二日が経ち、4月になりました。
今日から、保育園の送り迎えの担当が、妻からわたしに替わりました。片道が徒歩2分の距離なのですが、このルーチンがあるおかげで生活リズムがダラけないことは、わたしにとって好都合でした。
べつにたいしたことでもないんですが、会社員だった頃と比べて、朝は時計のベルが鳴るよりも前に、自然と目が醒めるようになりました。だいたい6時前には目覚めて、お茶を淹れ、TVのスポーツニュースをハシゴしつつ、スーパーのチラシをチェック。買い物の道順と献立を考えながら、前夜のプロ野球のリザルトを見ることが、すっかり習慣化してしまいました。
だいたい、他人が野球をやっている姿を見て、何が楽しいんでしょうねぇ??とは問わないで下さい。これはわたしの父からデオキシリボ核酸に深く刻みつけられたものなのです。これはもう仕方ないことだ、と温かく見守って欲しいところです。
さて、父から受け継いでしまったもので、厄介なモノのもうひとつは、現在アイリーズが住んでいる家です。父は、この家を建てたその1年後に、急性の骨髄腫で他界しております。それはもう10年以上も前のことになりますから、父が今でも元気で存命していて、定年を迎えた父に替わってローンをわたしが引き継いでいることと、父の死亡保険金で全額返済が終わっているこの家になんとなく住んでいるのと、どっちが良かったのか、ということについては、もはや考えないようにしているのですが、どうにも使いづらい感覚があることがひとつ、それとは別に、WEBでは発表したくない、ごくプライベートな事由がもうひとつあって、あまり好きになれないままでいました。
それから、母の性質である「整理下手」についても、わたしは特に色濃く受け継いでいます。そんなもんですから、きっと嫁いで来た当時の妻の目にあっては、母とわたしが家の中を散らかしまくる悪の枢軸と映っていたことでしょう。たしかにそのころの妻はそのことについて、母に対していくらか遠慮する格好を採っていましたが、そしていつしか便乗するようになっていたようです。
やがて娘にものごごろが付いた頃、わたしたちはアタマを抱えました。娘のDNAにも、整理下手が見事に刷り込まれていることを察したからです。
そのころのわたしは、年間残業時間が1200hをオーバーする熱血サラリーマンモードでしたから、あまり家の中のことについてかまっている時間はありませんでした。せいぜい、W3と進行性ダブル病を展開するのが精一杯だった記憶があります。
そのせいで、アイリーズの住む家のエントロピーは、増大する一途を辿っていました。
ここで無職となったわたしは、柄にも無く一念発起しました。
転勤のリスクがまったく無くなってしまったのだから、この家を使いやすく住みやすいように整えていこうと決めました。ただ、わたし一人で不良セクタやクラスタを排除してデフラグするのにあたって、その工数がどれくらい必要になるのか想像もつきません。ですが実行しないことには、いつまで経ってもトッ散らかった空間と、それに乗っかるアタマが存在し続けるわけで、この家に対する嫌な感じは永劫続きます。とにかく最悪の場合は、パーテイションの切り直しさえも視野に置いて、お片付けをやりたいと思いました。
こうして、妻はジムニーで出勤し、わたしは娘を保育園に連れて行ったあとで掃除を開始するという主夫生活、別名ヒモ状態は、ついにスタートしました。
立川談志師匠は、「掃除なんてものは、地球の上のホコリを、あちらからこちら、こっちからあっちに移動させているだけのことだ。だから意味が無いンで、俺ぁ一切やらねぇよ〜」とおっしゃいますが、わたしは師匠の勧告に逆らって、お掃除に励むことにしました。
読まない雑誌、着ない服、未開封のDMや意味不明の書類などを、ひたすらグループ分けしました。今日は、それらをひとまとめにして、わりあい近所の清掃局にTB2で持ち込んでやれ、と算段しました。
が、しか〜し。奇しくも3月30日でTB2の継続検査が満了してしまっていることを忘れていました。そこで本日のところはこのくらいで堪忍しといたることにするしかありません。搬出については早々に諦めることにして、淡々とした分類作業を黙々と続けていました。
あっという間に昼がきて、妻が食事のために家に戻ってきました。
「かくかくしかじかなので、昼からグレイハウンド・ジムニーを使わせてくれ〜。」
W3は修理する気力無しのため動かせず、W1S-Aは車検切れ、EJは遠く離れた車庫の中だしシルクロードも自賠責切れ、おまけに自転車はバラバラという状況なので、臨時ナンバーを借りに行くことさえ自由にならないわたしなのでした。
やがて昼休みを終えた妻を職場まで送り、今度はそのまま市役所に出向きました。臨時ナンバーを申請してくることは、たしかにそのときの重要案件だったのですが、わたしにとってはもうひとつ、大切な目的がありました。
国民健康保険にもしも加入するなら保険料はいくらになるのか、かねてから知りたいと思っていました。そこで窓口に問い合わせしてみたところ、担当者のかたは、前世紀の遺物のようなダム端末をチャカチャカと操作して、わたしの平成12年度と13年度の所得をプリントアウトしてきました。そして、ワラ半紙に輪転機で印刷した説明用フォーマットをわたしに提示して、今度は電卓を叩きはじめては数値を鉛筆で書き込みはじめました。
(トロくせぇことを タラタラやってんじゃねえよ!)
そう言いたくなるのを、何度も飲み込みながら我慢して、彼の所作を眺めていますと
「えー。あなたの場合・・・・
平成13年の3月31日に退職なさってますから、国民健康保険に加入するにあたって、3月31日の一日分として3月分を徴収させていただくことになります。それは平成12年度の所得によって算定されますから、約4万円になります。
そして、4月分以降からの金額ですが、3万7千円くらいでしょうか。」
確かに、一昨年のころは、地獄残業時代の余波を受けて、去年よりは収入が多かったのには違いありませんが、それにしても高すぎます。こんなには払えません。そもそも何で一日分をそれも後追いで、4万円も払わんならんのん〜?
憤りもあって、ちょっと考えさせてください、とその窓口を離れました。
TB2のために、臨時ナンバーを受け取りました。翌々日の4/3〜4/5の間、有効になるように申請しておきました。4/2には、別の重要な用事が予定に入っていましたので、あえてそういう格好にしました。
今はもうとにかくお金を使いたくないわけなのですが、必要なものは止むを得ません。役所の中にある銀行出張所のATM機で、ユーザー車検に必要な金額だけを預金からおろし、途中で何件かのスーパーで食材を買い込んだりしながら自宅へと帰りました。
夕方。
晩飯の支度をしているとき、内山某と名乗る先物取引屋だか資金運用屋から、勧誘の電話がかかってきました。サラリーマンだったころには、当時の職場に直接電話が来てずいぶん迷惑したものですが、自宅にまでこうした電話が来るもんなのか〜?辟易としながらも、受話器からのマニュアルどおりなトークをひとしきり聞き流してみました。
「ああ。俺は今日から無職なのよ。」と返したその刹那です。音声のトーンが変化しました。フフンと言う嘲笑の後でガチャン・・・ 向こうさんから電話を勝手にかけて来ておいて、あげく叩きつけられて切られたのにゃあ、ちょっとヘコみましたね。えーい。わたしが貴様に叩きつけるのが本来の筋じゃい。ボケ!
なんだか悲しくなってきたんで、さあ気分を換えて娘を迎えに行こうか、と庭先に出たそのときです。今度は携帯電話に着信がありました。妻からでした。じゃあ娘を車で迎えに行ったその足で、キミを迎えに行くワ ってことにして娘を拾い、妻の職場の方に向けて5分ほどドライブです。
自宅近くのコンビニエンス・ストアの前にある道を東に進んだその先は、T字路になっています。右に進むと海が見え始めますが、そのあたりに妻の職場があります。左に進むと、山があって、つい一昨日までわたしが所属していた組織があります。
娘は北の方向を指差して、「おとうさんのかいしゃ〜」なんてことを言いはじめました。またヘコみました。
だからぁ〜 とうちゃん無職なんだってば〜。
さて、耐え忍ぶ生活から抜け出ようと決意したのは、窮屈だったり退屈だったりする現状を打破し、広さを補給したいと願う「彼のオートバイ/橋本・白石的思考」を多少のスパイスとして効かせて俺はこうありたい、という人生の方向性を、齢37にしてようやく見つけたのが、そのきっかけとなっております。その方向を目指し実現させるうえで、まずは「求職中の失業者」という身分を確定させる必要があったりするのですが、その理由については追ってネタにしたいと思います。現段階では流してください。
4月2日
火曜日の午後、つい先日に抜けたばかりの組織から、木で鼻をくくったような書面とともに、離職票なる書類が郵送されてきました。これを持って、公共職業安定所に行け、ということなのでしょう。昨日と同様に、グレイハウンド号の準備はできていますから、さっそくその離職票を職安に持参してみたところ、ごにょごにょごにょと、簡単な説明を職員さんから受けることになりました。
まとめます
なんだか無職の仮免許みたいな書類を受け取ったわたしは、今日もまた、スーパーのハシゴをしながら家に戻りました。晩飯の支度をする前に、かねてから準備してあった新品純正マフラーをTB2に取り付けたり、アバウトに洗車したりして明日の準備を整えることにしました。
翌朝。
やはり6時前に目覚めたわたしは、そ〜っと庭先に出ました。そして静かに臨時ナンバーをTB2に取り付けました。
ウチにお越しくださったことのあるかたは、ご存知でしょうが、お向かいのお宅がモータースを経営なさっているんで、ユーザー車検を受けに行くんだ〜なんてことをおおっぴらにやることは、なんとなくやりにくいんですよね。そこのご主人がシャッターを開けるのが、だいたい7時過ぎですから、それよりも前に家を出る必要がありました。
たしかに時間は早すぎるのですが、片道一時間のところにある陸運支局へと出発。道中で適当に時間を潰しながら、9時ちょっと前に到着しました。
書類を書いて、ゴロゴロに載ったり揺さぶられたり叩かれたりしたしばし後、ホイと新しい検査証を渡されたわたしは、臨時ナンバーを敷地内で外し、「4」のステッカーをフロントガラスに貼り付けて、一気に家へと戻りました。そして、まとめてあった雑誌やらビリビリに破った書類を袋詰めしたものをドカドカと積み込んでから清掃局へ出向きまして片付けてもらいました。
市役所に臨時ナンバーを返納したわたしは、そのまま地域で一番規模の大きいホームセンターに乗り付けてみました。
わたしの父と大工の棟梁とが、かつてやり取りしたドキュメントと思われる青焼きの設計図面には「納戸」と表記されている、じつに中途半端なサイズの部屋が、2階の北西角にあります。わたしはここに 高さ2.2メートル×幅2.2メートル×奥行0.5メートルを5段に仕切った書庫を作って、家中に散乱している書籍・文献を全てここに押し込んでしまおうという計画を立てていました。
今日のところは、柱部分になる材料「米松の垂木」を適当に買い込みまして、さらに最近このホームセンターで開始されたばかりのサービス「電動工具レンタル」のなかから、電動カンナだけを300円払って借りてみました。
毛羽が立っている垂木の表面を薄く削りこんでいきますと、キレイな地肌が出てきました。これは楽チンです。わたしは一気に全部の表面を加工しておいて、数日間乾燥させることにしました。なんといっても、ナマの木の匂いってのは案外キツいもんですから。
こうして、無職生活最初の一週間は、ひたすら家の中の整理整頓に明け暮れていました。自宅蟄居も、想像していた以上に忙しいものです。
そうしたわたしの姿を見て、母が気分転換に「春の遠足に行こう」というワケのわからないことをアイリーズに提案してきました。
これ幸いと、かねてから娘にねだられていた「春になったら砥部動物園に連れて行ってね」計画を、ここで実行に移すことにしました。スポンサーは母ですから、ほーんとにお気楽です。
砥部の町は、四国は愛媛県の松山市から少し西に位置する場所にあります。その週末は、まずは瀬戸大橋に乗っかりまして、香川県に渡りました。そして、かねてからその存在は知っていたあるウドン屋さんに行き、四人は早朝にも関わらず、大量に摂取してきました。そしてわたしは、そのお店の偉大なるサービス「ウドン専用粉の小売」の恩恵を賜ってきました。
かの有名な「緑あひるの赤」と、その特性がピーキーであることでも知られているらしい「麺匠」を都合4キロほど分けてもらいました。
「なあに。兄ちゃん”白椿”で打てる腕があるんやったら、麺匠もそれほど難しくないでぇ〜」
その店の大将は、にっこりと笑いながら、そう仰いました。
普段、岡山で入手できるもので、わたしが好んで使っている粉は、日清製粉の「麺木鉢」と「白椿」という銘柄なのですが、とあるややこしい事情があったらしく、その取扱店がしばらくの期間、臨時自主休業をしやがってくれていました。ニッポン中に蔓延した産地儀装疑惑事件の影響で、我が家において粉が補充できないことは、さながら兵糧責めにあっているようでして、そろそろ禁断症状が出始めていたところでしたから、たいへん助かりました。
こうした粉の特性についての詳しいところは、いずれ拙サイトコラム・かけうどんは朝のブルースで書きたいと思います。
自己申告によるものながら、そこの大将に腕を誉められて鼻高々となったわたしはそこいらあたりに置いておくことにして、一気に松山方面に移動してみました。
ここの動物園は、やっぱし良いですねぇ。
安い・広い・観やすい・臭わない・プチイペント多し。
さんざん遊んで帰ろうとしたところで、時間限定イベントでしょうか、広場にはゾウガメが2頭、飼育員の監視のもとで放されているのを見つけてしまいました。娘はカメさんに釘付けです。
わたしは・・・・実はフクロウって大好きなんです。
なんと、足輪にチェーンが付いている状態ですが、一羽だけが外に出されていました。
家で飼育することが絶対に許されない動物であることは周知のことですから、わたしの興奮はピークに達してしまいましたね。大人げもなく、手乗りフクロウに感激したのでありました。
さて帰り道。
アイリーズは温泉が好きなのですが、嫌いな温泉もいくつか存在しています。
男女の浴槽サイズに歴然とした差異があるものほど、その嫌悪感は大きくなります。列記するとカドが立ちますのでヤメておきまして、わたしたちは今治市にあるお気に入りの鈍川温泉に立ち寄ってみました。
わたしはドライバーをずっとやってましたし、引き続きドライバを努めるつもりでしたから、のぼせてはマズいなと思って、早めにお湯から上がりました。そこのロビーにあったTVで、ペタジーニに満塁ホームランをくらわされる瞬間を、ちょうど見てしまいました。明日の朝は、テレビも見ないし新聞も読まないことが、ここで決定されました。
それから「しまなみ海道」を渡るのは初めてだ〜、と感激しきりの母を連れて、ついぞ先日W3A改(ヘン しかも転倒直前)で立ち寄ったばかりの柑橘類農家直売店に行ってみました。
孫と試食コーナーをさんざん堪能して舞い上がっている母は、いったい何十人に配る気なんやろ〜という量を多種に渡ってどっかと買いこんでいました。
「ん〜 このあたりでコケたんだよ〜」
現場付近を通りかかったとき、それを妻に報告してみました。そして映画の彼女の島の見える島に渡り、あのプチ・フェリーで尾道に渡ろうとした頃に、日没を迎えました。
「おなかすいた〜 ばあちゃん〜 らーめんたべたい〜」
たぶん、娘のニューロンとシナプスは、食べ物をキーにした明快なリレーションシップが形成されているのでしょう。わたしと妻は、あえてそれまで娘に感づかれないように、「尾道」というキーワードを車中で発声しないように心がけていました。なにせラーメンとなると、しかもシナチクが入っているやつになると、もう娘はじっとしていられないし黙っていることもできないもんですから、うるさくってしょうがないわけです。そこで、あえて計画を伏せていました。
その時間帯では、店じまいしているところが多いようです。そこで、初めて行く小奇麗なラーメン屋に入ってみましたが、ここが超大当たり〜。今度から、ここにしようね、などと言いながら家路へと急ぎました。
離職して最初の日曜日は、こんな感じでした。
世間の想像やご心配に反して、恐ろしくお気楽に過ぎていったのであります。