=炭鉱のカナリア=

Mar 24, 2007

今、ちょうど二回目を読んでいるのが、東直己著「ライダー定食」。

市立図書館で貸し出してもらったものだ。

半年前の、ある平日の昼下がり。

この日わたしは代休を取っていて、近所の図書館に出かけていた。

調べごとの用向きを終えたあと、ほかにも貸りて読んでみたい書籍を見つけたので、手続きカウンターの待ち行列に並ぶことにした。

わたしのふたり前には、お齢を考えると年金暮しとおぼしい好々爺(決して本心で書いていない)が、なんだかわからないけれど、大きな声を出して、係員と揉めていた。

平日の図書館には、いろんな人がいる。

もちろんわたしも含めて。

30歳台後半ぐらいの男性が、蕎麦打ちの本を選んでいる。その姿を見かけてしまうと、わが身を振り返って、つい心配してしまう。

曜日祝祭日と朝夕を問わず、行くと必ず姿を見かける青年もいる。きっと彼は、彼の身を振り返って、わたしのことを心配してくれているに違いない。

大声を出し続けるその老人を見て、わたしは考えていた。

(このヒトは、以前からそうやって世の中を渡ってきたのだろうか、それとも単に加齢のせいなのか。どうでもいいけど、自分を照らすと少し心配だな)

やれやれと苦笑しつつ、何気なく後を振り返った。

そのとき目に飛び込んできたのが、くすんだクリーム色の背表紙。

タイトルは、「ライダー定食」。

ウチの近所の市立図書館では、カウンタの正面から見て、だいたい2メートルの場所に、現代日本小説の書架があるのだ。

なんじゃそれ。

誰かの個人的なスキルについての自慢話、例えばビールの空き缶でメシを炊いたり、廃屋から剥がした板を燃やして、その埋み火で肉を焼いて食うとか、そうした武勇伝の記録なのかな、と思った。

がしかし、日本現代小説のコーナーにそのタイトルがあったわけで、どうやらライト感覚のアウトドア・ライフ教則本などではなさそうである。

わたしはいったん待ち行列から離れた。書架にあったその本を手に取り、列のいちばん後ろに再び並んだ。

ウェブのコンテンツもそうだが、図書館の本にあってもまた然りで、厳密にはそうではないとは言っても、ナレッジを取り込もうとするその瞬間瞬間に、いちいち課金されるものではない。だから、気軽に、またあるいはぞんざいに扱われているのに違いないのが図書館の本であろう。

つまらない、とわたしが判断すれば、保管場所が一時的にわが家になってしまっただけ、という本がどうしても出てきてしまう。初めて手に取った作品の、第一印象が悪かったせいで、わたしからは不当な評価をずっと受け続けている大作家も多いと思う。(ウェブもそうだ)

その一方で、丁重に扱われる図書館の本もきっとあるにちがいないと思いたい。(ウェブもそうだ)

ハードカバー「ライダー定食」は、わたしのココロを打った。だから当然、いつもより大切に取り扱われた。

表題作「ライダー定食」は、北海道をオートバイで走る女性の話を短編に綴ったものだった。

電車の中で、ハードカバーの表紙を開いた。その最初の5行で、わたしはすっかり虜になってしまっていた。東直己作品のファーストコンタクトは、わたしにとって大成功だったと言えるだろう。

(ああ。この主人公は、俺だ)

かつてハタチ過ぎだった頃の、ソロ・ツーリングの記憶が蘇ってきた。

詳しくは書きたくないが、あのときは2月だった。わたしはTY250Sに乗って高松から信州を目指した。往路で抱いていたテーマを振り返ると、痛い。

あのツーリングは、ただ一度だけの過ちだと、今なら知っている。

半時間ほど経った。読後のわたしは、おおきな溜め息と共に、久々に感じる深い満足に包まれていた。

たとえば大片岡が描くオートバイと女性の場合だと、どこまでも爽やかで、その状態を保ち続けながら物語は進む。

極端な場合、お話のエンディングで彼女はいったいどうなったのか読みきれないケースもいくつかあって、読んだあと口をつく言葉が「なんじゃそりゃ」などと、欲求不満を訴えることもある。

それはもちろん、わたしの想像力が欠如していることも、要因のいくぶんかを占めるのは言うまでもないことだ。

うわあ、なんていうことだ。

この作者って、いったい何者なんだ??

強い関心を持ったまま、この本に収録されている別の短編を読み耽った。

今まで、こんな世界を知らなかった、自分の不幸を呪います!

すごい。すごい。電車の中でわたしはひとり大喜びしていた。

自宅でMacを起動する。

検索サイトで作者の名前「東直己」をキーワードにして、ひっかかるサイトを眺めた。

えっ。このかたは、長編ハードボイルドの作家さんなのですか。短編集「ライダー定食」ではそんなことをちっとも感じなかったのに。しかしそれは、わたしが鈍感なせいだ。わたしは、わたしの無能を呪う。

わたしはバイオレンスが嫌いだ。

以前にも、どこかのコラムで書いた記憶があるが、人が病気や衰え以外の理由で、やたらに死んだり、深手の傷を負ったりするのが嫌なのだ。そもそも想像することさえ嫌なのだ。だから長編ハードボイルドを小説で読んだり、映画で見たりする機会など皆無に近い。

40歳を過ぎたこの年齢になって、いまさら凶暴になっても困るし。

それなのに、ハードボイルド東直己作品を、引き続いてどうしても読んでみたい、と強く思ったのだった。

次に図書館で借りたのが、「義八郎商店街」。

手に取るのに任せて選んだ。

冒頭の2ページで、胸が痛くなり、鼻腔が熱くなった。わたしは泣いていた。

(ああ。この運転手は、俺だ)

詳しくは書かないが、けっして長い期間ではなかったとはいえ、わたしも似たような境遇、同じような精神状態に陥っていたときがある。

痛い。そして嬉しい。

ハードボイルドというより、SF仕立ての人情噺。現代版の文七元結(ぶんしちもっとい)、そんな印象を持った。

これを読んだとき、人間をものすごいカタチで切り取って表現する作家だなあと思った。もしかしたらこの人こそが、わたしのハードボイルド・アレルギーを乗り越えさせてくれる作家かもしれない。期待は大きい。

そういえば最後にハードボイルドを読むつもりで本に向かったのって、いつ以来だろう。

ああ、いしかわじゅんだ。「吉祥寺物語」「東京で逢おう」「ロンドンで逢おう」以来の、十何年かぶりだ。ステレオタイプを突き抜けた、向こう側にある作品が面白いと思うのだ。ああいった洒落た作風が、わたしは好きなのだ。

それから、ハードボイルドにはカテゴリーされないけど、2006年の春頃に読んだのが、大筒井康隆の「銀齢の果て」。この本、やたらとおおぜいの人が死んだ。正確には殺しあった。あれで、すこし抵抗力がついていたのかも知れないなあ。

そして2006年のわたしは、東直己作品のほとんどを読破した。

どれを読んでもハズレなし。わたしの脳内にはドーパミンが満たされっぱなしだった。

多くの命が見捨てられ、いくつかの命が救われた。ああ、こんなハードボイルドがあるのか。

事実は小説より奇なり、と言う。しかしながらこのかたの小説、そのほとんどが現実と虚構の境界線が見えにくいように思う。だから東作品は、よけいに面白いのだろう。

あちらとこちらを行き交いながら麻痺する感覚が洒落ていて、とても良いのだ。

今まで、こんな世界を知らなかった、自分の不幸を呪った。

このお二方を並べて考察するのもどうかとは思うが、室謙二氏による片岡義男の書評で、「作りごとの方が、新鮮なショックがあっていい。第一、現実がつまらないんだから」というのがあった。

それなら東直己氏の複雑なリアリティ、これはどうだ。 時代と小説が、ほんの紙一重のところで踏みとどまって存在している。テレビでは、ややこしくて表現しきれないような物語が何作も上梓されている。臓器売買、新興宗教、死体フェチに児童虐待。

作りごとなんかではなくて、どこかの闇の中にきっと実在するに違いない幾編もの物語を読んで感嘆の声をあげた。じつに面白いと思ったのだ。

あまりにおもしろかったので、ぐいぐいぐいと読み進み過ぎた。だからもしかすると、いろんな大切なことを見落としているかも知れない。それはもったいないから、2007年のわたしは、ゆっくりと時間をかけて、あらためて東直己全作品を読んでみることにした。

読みながら、いろいろ考えた。

東直己「ライトグッバイ」の読後だから、メメント・モリを知っている。それを踏まえて、死と命について、とりとめもなく考えた。考えながら読んだ。

近頃、テレビのニュース番組では、減らない酒気帯び運転、逃げ得のひき逃げに死体損壊などなど、さまざまなヒトゴロシのトピックで、いつも賑わっている。

わたしの身の回り、日々の生活環境を考えてみる。

もはやクルマが無いと生活が成り立たないわが町では、制限速度と赤信号は、ほとんど守られない。スクールゾーンでの時間限定車両通行禁止なんてのは、もちろん無視される。

確かに、良い子でいることのメリットって、あんまり無い。だけど、守らなくてもかまわないルールなら、その運用は難しい。わたしは今、子育ての真っ最中だから、ことさらそんなことに気付く。

治安はどんどん悪くなる一方だ。でも月光仮面は来ない。

小説でも考えつかないほど酷いネグレストや虐め。妙な少年法の適用。殺意が無ければ人を殺してしまっても、罪にならないことがある世の中。

テレビドラマはおろか、映画や小説などでも表現されることのない「異な」ことが、じわじわと現実世界に噴出しはじめている。

現実の世界は、血がでないチャンバラじゃあないぞ。

このとんでもない現実に、わたしたちは、すっかり慣れっこになってしまった。しかし、それではいけない。ぐっと奥歯を噛み締めて、逃れることができる強さがなければ。

以前、風邪をひいて、臭いがわからなくなってことがあるが、あのときと同じだ。この世界にいるわたしは、なんにも気付かないまま、誰もが無味無臭と錯覚する毒ガスに、いつか襲われて殺されてしまうのだ、と思う。

炭鉱のカナリアのように。

そう感じて以来、メメントモリが口をつくのだ。

First to fall over when the atmosphere is less than perfect
Your sensibilities are shaken by the slightest defect
You live you life like a canary in a coalmine
You get so dizzy even walking in a straight line

You say you want to spend the winter in Firenza
You're so afraid to catch a dose of influenza
You live your life like a canary in a coalmine
You get so dizzy even walking in a straight line


Canary In A Coalmine / The Police

続く

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